前編 私のがん体験
<手術の後に虫垂がんと診断>
垣添:こんにちは。まず、岸本さんのがん体験をお話しいただけますか。
岸本:私ががんになったのは、今からだいぶ前、2001年10月です。虫垂がんという、消化器がんの中でも、珍しいがんでした。手術をして1カ月ぐらい入院して、再発の不安がありながらも、こうして2017年を迎えることができています。垣添:がんはどのように見つかったのですか? 岸本:腹痛と発熱が続いていて、医療機関を受診したのがきっかけです。あとから聞くと、がんそのものの痛みではなく、虫垂炎を併発していました。 垣添:そっちの痛みですね。手術前に診断はついていたんですか。 岸本:いいえ。腹痛と発熱で受診してから、大腸がんだろうと診断がつくまでに、1年と3カ月ぐらい。開腹手術をして、そのあと、はじめて虫垂がんという診断がつきました。 垣添:術後に病理検査で決まったんですね。虫垂がんとお医者さんから聞いたとき、どんな感じで受けとめられましたか。 岸本:私が受けた手術で治った確率はどのくらいかを聞きました。主治医の先生は最初、30%くらいと言われました。とっさに、「100-30=70」、70%で助からないのかなと思いました。それが顔色に出たんだと思います。先生があわてて、「ま、50%としましょう」と、言い直されたことが印象に残っています。 垣添:なるほど。 岸本:最初にがんと告知されたときには、驚きもあるし、死とつながるような恐怖感がありました。しかし、いろいろ調べて、最善と思われる選択をして、手術を受ける前は、期待感のほうが大きかったのです。それでも、助からない確率がこれほど残ってるんだということを重く受けとめました。本当にがんの怖さと向き合ったのは、告知のときより、手術が終わったあとの説明だったと思います。 垣添:それはいつごろですか? 岸本:告知から1週間くらいで入院し、そして1週間くらいで手術をし、そのまた1週間くらいで先生から説明を受けました。
<「何かはしていたい」>
垣添:かなり厳しい見通しを聞かれて、恐怖以外になにかありましたか。
岸本:確率で70、30と示された。じゃあ、何とか助かるほうの30に入る方法はあるんだろうか、と考えました。不安がありながらも、その情報を探さなければと思って、いろいろ試行錯誤しました。
垣添:情報集めはどのようになさいましたか?
岸本:2001年は、情報環境が今と大きくちがいました。私自身、パソコンをようやく使い始めたころでした。慣れないパソコンで、国立がんセンターのページや、医療者の方がなさってるセカンドオピニオンのサイトにアクセスしたり。それから、もともと診断をしてくださった先生のところに相談に行ったり、がんの経験者とも話しました。
垣添:ただ、虫垂がんは珍しいがんですから、当時は情報がなかったんじゃないですか。
岸本:そうなんです。希少がんとそれ以外のがんの情報量のちがいは、すごく印象に残っています。
垣添:手術のあとは、治療はなさったんですか。
岸本:はい。経口の抗がん剤を処方されて、5年間飲みました。
垣添:食欲が落ちたりとか、副作用は出ましたか。
岸本:はじめに飲んだときに、何かちょっと、酔ったような感じはありました。主治医の先生には申し訳なかったんですけれども、正直、自己判断で飲んだり飲まなかったりしました。治療を受けた病院とは別に、国立がんセンターの先生に、セカンドオピニオンで、この抗がん剤の有効性について聞きにいったりもしました。再発を予防する科学的に立証された方法はないんだなあ、とわかりました。おそらく、そこから、患者さんがいろんな試行錯誤をするんだと思います。
垣添:岸本さんの場合は、国立がんセンターとかにアクセスして、限られた情報ではあるけれど、非常に的確なご判断されたと思います。けれども、一般の方は、なかなかそうはいかないんじゃないですかね。
岸本:そうですね。でも私もいろいろ巡りました。気功の教室に通ってみたり、漢方の処方を受けたり。漢方と食事療法は今でも続けています。
垣添:変な情報に巻き込まれなかったのはよかったですね。
岸本:はい。いろいろな情報があって、どれも試してみたいんです。でも、体はひとつなので、すべてを試すわけにはいかない。その中でたまたま出会ったものが、片方で主治医の治療と矛盾しないとか、あるいは、がん患者一般に推奨されている生活習慣か、を考えました。「何かはしていたい」という気持ちはとても強くありました。
<情報が欲しい以上に、共感したい>
垣添:がんサバイバーは、しばしば、がんと言われたときに孤立し、非常に疎外感を味わう。ひとりで苦しみに置かれているのは大変具合の悪いことではないかと考えて、6月にがんサバイバー・クラブを立ち上げました。2001年当時、もし、こういうクラブがあったら、岸本さんはどうされていたと思います?
岸本:おそらく加入するまでに、何カ月かは要したと思います。でも必ず入ったと思います。
垣添:何カ月かを要するのはなぜです?
岸本:私自身も、患者同士の交流組織との出会いがあったんです。しかし、治療を終えたばかりのときには、「情報は欲しい。一方で、早く健康な人と同じ日常生活を再開したい」という気持ちで、行く気がなかなか起こりませんでした。日常生活の再建や自分なりの養生法がそれなりにつかめて、一段落したときに、「私の方法が唯一の方法ではないだろうな、ほかの人はどうしてるんだろうな」と、知りたくなりました。そのときに同じ病気をした人と会いたいと思いました。今思えば、当初から擬似的なクラブを探していたと思います。診断を受けたり、退院したときに真っ先に連絡を取りたいと思ったのが、「あの人がんを経験したよ」と、風のうわさに聞いている知り合いでした。その人たちと交流したいというのは、情報が欲しいという思いもあるけども、それともちょっとちがって、共感をしたい。 垣添:共通の経験をした人と話し合って共感を得たいということですね。 岸本:そうなんです。私のがんは、まれながんですので、同じがん種を経験した人は見つかりません。ただ、がん種を越えて、通じ合う部分、再発の不安だとか、生活上の不安だとか、家族への思い、医療者とのコミュニケーションの悩み、そして、死について思うこと。そうしたことを語り合えるのは、がんの経験者同士だなと思いました。
後編 家族にがんを告げるとき
<とても強かった、家族の受け止める力>
垣添:2001年にがんがはっきりしたときに、ご家族との関係は、どうなりました?
岸本:80歳を過ぎた父がいて、母はもう亡くなっていました。高齢で、穏やかな生活をしている親に、子どもががんという事実をどう伝えたらよいだろう。そのことに非常に心を砕きました。自分で病院も決めて、治療法も決めて、「がんになったけれども、こういうところでこういう治療をするから大丈夫」と言える段階で、はじめて報告をしました。
垣添:家族がご本人に告げるか告げないか悩む、とは逆の経過ですよね。
岸本:そうですね。90年代に一気に本人告知が進んだと聞いています。私も2001年当時、ひとりで診察室で「がんです」と聞き、「あぁ、今ってこうなってるんだ、ドラマで見るのとだいぶちがうな」と思いました。
垣添:お父さんは淡々と受けとめられましたか?
岸本:はい。親や家族は、患者本人が思っている以上の力ってあるんだなと思いました。
垣添:力というのは?
岸本:受けとめる力というか、支える力というか。たとえば父は若いころ結核になり、それこそ死に至る病気の経験をしている。もちろん戦争も経験している。人の生き死にや病気というものに対して、私と比べものにならないくらい経験を積んでいるわけです。そのことに気づかずに、なにか患者本人が家族を守らなければと思い込んでいた自分って、ずいぶん不遜だったなあと今では思っています。
垣添:お父さんのほうがはるかに人生経験も豊かで、衝撃的な事実を受けとめられる力が十分おありだったと。
岸本:そうですね。父は若い頃に配偶者を亡くしていて、私は二人目の配偶者の子どもなんです。病気をもっている人が家族にいる経験もある。なので、私が「再発したらどうかな」とか「もし厳しい局面になったらどうかな」と口に出しても、普通の話題として聞いてくれる。それは非常にありがたかったです。
垣添:そうでしょうね。
岸本:「もし再発したら」と言ったときに、「そんなことを言ったら治るものも治らないぞ」と返ってきたら、励ます気持ちはわかるけれども、「ここも再発の不安を話す場ではないんだな」と、自分の胸にしまい込んだと思います。どんな話でも、家族が普通の顔をして受け止めてくれる。それそのものが大きな支えでした。
あと、おまじないみたいな食事療法に対しても、私がそうしたいと思っているならば、よほど変わったことでない限り、口を出さない。そのかわり、家族で食事するときに、私の食べないものでも、家族は平気な顔で食べてくれる。それがとってもありがたかったです。
垣添:なるほど。
岸本:きょうだいたちも、「あの子が食べないから皆で我慢しましょう」となると、いたたまれなかったと思うんです。そういった意味では、家族が普通の生活をして、家族の人生を変えないでいてくれることでこんなにも支えられるんだと思いました。家族だと、つい何かをしなきゃとがんばる。そういう局面もあるけれども、何もしないで、家族の人生を全うすることも支えのひとつなんだなと、家族の人には感謝の言葉を贈りたいと思っています。
<近くの家族より遠くの患者>
岸本:ときに患者にとっては、「近くの家族よりは遠くの患者」ということがあると思うんです。NHKで、いっとき、がんの患者が自由に交流できるサイトがありました。地方だとなかなか身近でがんを話せない人がいる。たとえば九州の人が悩みを送ってくると、北海道の人が、「あ、私も似たようなことがあります。私はこうしています」と答えてくれる。
それは近所の人はもちろん、家族にも言えないようなこと。たとえば、家族に対しては、あまり気弱なことは言ってはいけないと思い、つい明るく振るまってしまうけれども、実は弱音を吐きたい。そんなときに、サイトでちょっと弱音を吐くと、「わかります。ちょっと頑張り過ぎていませんか」と言葉をかけてくれる。そんな交流を目の当たりにしました。
垣添:交流サイトは、非常に重要ですね。
岸本:そうですね。投稿が載って、それを見て、自分のケースを投稿してくれる。そんなふうでもいいのかなと思います。
垣添:そういうサイトを作る際に、なにか注意したようなアドバイスはありますか。
岸本:極端な生活習慣を勧めるとか、あるいは商業的な活動につながるようなものは気をつけた方がよいと思います。
<ほんの少しの工夫で働ける>
垣添:手術を受けられて、抗がん剤飲みながら、お仕事の方はどうされましたか。
岸本:続けていました。ただ治療から2年間は、がんのことを人に話しませんでした。
垣添:仕事を本格的に始められたのは、治療後どのくらいのときでした?
岸本:実は退院後すぐに始めました。退院中も病名を偽って、喫茶店に打ち合わせに来てもらったりしていました。
垣添:2年後に公にされた。その心の動きはどこから来てるんですか?
岸本:やはり、2001年はまだ、がんは死と直結するイメージがあったんです。私はフリーで仕事を請け負っています。そうすると、仕事が来なくなるのではないかという心配が一番ありました。なので、「退院したら普通に仕事してるじゃない」ってところを見せて、2年ぐらい経ったなら、実は……と言っていいのかなと思いました。
垣添:それはなぜですか?
岸本:隠していると不自然なことがいっぱいあるんです。たとえば私は虫垂がんと、それが広まっていた大腸も一緒に切っているので、便通の問題が多くありました。1時間の会議でも、なかなか座っていることができない。1回や2回はトイレのために離席する。状況がわからないと、「なんでだろう」とか「やる気がないのかな」と思われるかもしれません。そうすると、「がんと言わないことよりも、むしろやる気がないと思われることのほうが自分の職業生活に支障になるんじゃないかな」と思っていました。
垣添:今は、改正がん対策基本法の中でもずっと議論されてきたように、治療を受けながら働く、いわゆる就労の問題がクローズアップされていますが、昔のご自分の経験を踏まえながら、今の就労の問題に関して、ご意見はおありですか。
岸本:就労は生きることと直結していて、仕事をやめると治療費が払えなくなるという事態が起きます。俗っぽい言い方ですけど、金の切れ目が命の切れ目。仕事の切れ目が命の切れ目。そういう事態になっていいんだろうかという気持ちがあります。
今、日本は単身世帯が非常に増えていて、働き手と、それを養う家族というモデルでは捉えられなくなっていると思います。もちろん、企業の立場になってみれば、なかなかスケジューリングしにくい人を雇用するのは大変だと思います。ただ、社会全体で考えると、働ける潜在力があるのに、がんだからという理由で働けなくていいのだろうかと。
垣添:そうですね。
岸本:生産年齢の人口はどんどん減り、一方で高齢者は増えて認知症の人も社会全体で支えていかなければならない。ほんの少しの働き方の工夫で、がん患者も働き手の中に入れることは、がん患者個人として以上に、社会として取り組む課題ではないかなと思っています。他の病気の人からは、「なぜがん患者の人ばかりそんなに優遇されるのか。健康な人だって、今は職に就くのが難しい」という声が予想されます。
しかし、がんを突破口に、モデルケースにして、さまざまな事情で働けない人の就労を支援していく。その中には、がん以外の病気や介護、子育て、とりわけ、障害を持っているお子さんの子育てなどが含まれる。たまたま先陣を切っているのががん患者だというふうに思ってもらえれば、いいなと思います。
垣添:本当にそうです。がんは患者数の多い病気ですから、医療問題であると同時に、経済問題であり、社会問題である。差別とかそういう問題も含めてですね。そう考えると、深い病気ですよね。
岸本:そうですね。
垣添:がんで成功すると、おっしゃるように突破口になって、他の病気にも広がっていく。他の病気で苦しみながら働く人たちの力にもなるだろうというふうに、考えています。
垣添:今日は、非常に貴重な情報をたくさんいただきました。ありがとうございました。
撮影協力:特定非営利活動法人 日本肺癌学会様
お話を終えて
岸本さんのお話を伺いながら、言葉や状況把握が的確だなあ、と感服しました。さすが文筆を仕事とされている方です。岸本さんが虫垂がんと診断されたのは、2001年。正しい情報へのアクセスが今よりずっと難しく、しかも情報の少ない希少がんでした。そんな中で、しっかり治療された。不安な気持ちを抱えた中でのご家族への伝え方や接し方など、なるほどと思いました。ずっと活躍されている姿は、サバイバーの励みにもなります。がんサバイバー・クラブでも、将来的には、こうした個人の治療体験の情報を充実させ、患者同士の交流にも力を入れていきます。【岸本葉子】(きしもと・ようこ)=1961年生まれ。東京大学卒業後、会社員、中国留学を経て、エッセイストに。暮らしや旅を描く。2001年、虫垂がんとわかる。著書に『がんから始まる』『週末介護』『ためない心の整理術』『捨てきらなくていいじゃない?』など。公式サイトhttp://kishimotoyoko.jp/