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第22回 私はもう、子供を産めないけれど
木口マリの「がんのココロ」

掲載日:2019年6月21日 14時45分

 私がかかったがんは、「子宮頸がん」。手術で子宮と卵巣を摘出することになり、子供を産むことができなくなりました。かろうじて卵巣を片側だけ残せたけれど、自分で大きなお腹を抱えることはありません。一生のうちに一度は経験してみたいことだったので、それができなくなるのはとても残念でした。術後数年経った今でも、ふと、「私に子供が生まれたら、こんなことをしてあげたい」という思いが頭に浮かぶこともあります。

 とはいえ、これまでの自分の決断に後悔はありません。産むことができなくなったからこそ、できることがあるだろうと思っています。不幸な境遇にある子供を引き取って、幸せにしてあげられるかもしれないし、たとえ子供がいない生き方を選んだとしても、さらに特別なことを見つけられるかもしれない。諦めたのではなく、納得しているのです。

 しかし、それでも時折、妊婦さんや子供の姿を見て、心にモヤモヤが起こることがあります。納得しているのにモヤモヤする、その思いは何だろうかと、考えてみました。


「うれしい」と「見たくない」、両極端なキモチ

 私の治療中に、親しい友人が赤ちゃんを出産しました。「生まれたよ」と、送ってくれた赤ちゃんの写真は友人にそっくり。甥っ子が生まれたような気持ちで、心からうれしかったことを覚えています。赤ちゃんに会いに行くたび、まるで初孫が生まれたおばあちゃんのごとくに、あれこれ買ってあげたくなったりしたものです。

 がん仲間が「妊娠した」と連絡をくれたときもパ〜っと気持ちが明るくなって、一日ハッピーなこともありました。もちろん、うらやましくもありますが、私ができないことを友達がしてくれていることが、疑似体験的にうれしいのです。

 ところが、SNSの「子供の成長」の投稿や、公園で幸せそうに過ごす親子の姿を「見たくない」と感じるときもあります。なんだかイライラしてきて、足早ならぬ指早でさっさとスマートフォンの画面をスクロールしたり、あえて見ぬふりをしたり。一方では「うれしい」なのに、もう一方では「見たくない」という心のギャップ。そんな両極端な気持ちがモヤモヤを生み出していました。


私って、心が狭いの?

 子供の誕生は、喜ばしいこと。幸せな人々を見て、そこに負の感情が湧いてくる自分は心が狭いような気がして、どつぼにはまっていきました。
   でも、心をまっさらにして自分に問いかけてみても、やはり「うれしい」のときは、本当にうれしかったのです。そして「イライラ」のときも、正直にイライラ。どちらも素直な感情でした。

 この真逆な感情の狭間には、何があるのか。私が「うれしい」と感じるときには、二つの条件があることに気付きました。一つは「私の状況を理解していること」、もう一つは「過度な幸せの表現がないこと」です。

 私の状況をわかったうえで、それでもあえて「知ってもらいたい」というときは、私も素直に幸せな気分になるのでした。それだけでなく、「キグチならきっと喜んでくれるはず」という、その信頼に対しても、よりうれしさを感じていました。

 そうやって知らせてくれた人たちには、「子供が生まれて、最高に幸せ!」「こんなにハッピー!」というような「過度な幸せの表現」がありませんでした。たとえ思っていたとしても表に出さないようにしてくれていたのでしょう。

「ハッピー!」は自然に湧いてくる感情だし、あふれ出てしまうのはだれにでもあることです。しかし、自分が一生持つことができないことに対しての強い喜びは、結構キツイ。多分、私の中には「納得はしているけれど、抱えているもの」があるのだと思います。

 病気に限らず、「仕事で成功したい」「恋人がほしい」「この人と仲良くしたい」など、望んでも手に入らないでいるときに、それを得た人から「うれしいうれしい」と言われたらカチンとくるもの。それは心が狭いのでも何でもなく、当たり前の人間の感情です。カチンを一つの感情として理解してみたら、ちょっと腑に落ちるものがありました。


幸せをあげるバランス、受け取るバランス

 以前、友人に今後の人生の展望をワクワクしながら語ったところ、相手をひどく落ち込ませてしまったことがありました。病気からの立ち上がりを喜んでもらえると思っていたので、彼女の落ち込みの理由が分からず、しばらく悩んでいました。そこで別の友人に相談すると、「幸せなときほど気を付けた方がいい」というアドバイスをもらいました。自分の幸せが、逆に人を傷つけることがあるという意味です。

 そうはいっても、自分の幸せが、相手に幸せをもたらすこともあります。そのあたりの「幸せのあげ方のバランス」「喜びの表現のバランス」は、経験で学んでいくものなのでしょう。同様に、「幸せを受け取るバランス」も、経験で知るものだと思います。

 治療により子供が産めなくなることは、ある日突然、事実として突きつけられます。それまで、人間としての経験がウン十年あるとしても、その事実からの経験は、これから積んでいくものです。
 周囲の人も同じで、友達や家族として長い付き合いがあっても、新しい出来事が起こってからは、お互いに未経験。言葉も行動も、最初は失敗することもあります。はじめから全てがうまくいく方が少ないかもしれません。

 感情は、頭で考えるよりも先に現れます。良い感情でも、負の感情でも、理由が分かる前に唐突に湧き出してきます。特に負のパワーは強力で、怒りの態度や言葉として爆発してしまうことも多いでしょう。

「負」が現れそうなときは、すぐさま反応しない方がいいと思っています。感情には、とりあえず心の隅で正座でもしておいてもらって、しばらく相手の言葉を吟味してみます。すると、隠れていた真意が見えてくるかもしれません。


憶測は「目を閉じて射る矢」

 あるときの講演で、「がんの友人の家に、子供を連れて遊びに行ってもいいだろうか」という質問を受けたことがあります。それに対して私は、「子供に会ってほしい気持ちを伝えると同時に、断るという選択肢を与えてあげたらどうでしょう」と答えました。個々でも思いは違うし、そのときの心の状態によっても、会いたいかどうかは変わります。周囲の人も患者も、まずは言葉にしなければ伝わりません。

 勝手に気を遣ったり、気を遣われるままにしたり、お互いの本当の気持ちを知らずに憶測だけで行動するなんて、目を閉じて矢を射っているようなもの。おかしなところに当たれば、さらにギクシャクした関係になってしまうかもしれません。  
 もしもちゃんと目を開けて射った矢が失敗だったとしても、それを許す気持ちを持っていることも必要だと思っています。どう言葉にしたらいいのか分からないまま、ズレたことを口走ってしまうのは誰にでもあるし、一つの言葉がその人のすべてではありません。
「私のために言葉にしようとしてくれている」という気持ちだけを受け取っておきます。もちろん、それによって傷を受けた場合は、感情を抜きにして「それは痛いです」と伝えることも大切です。感情が言葉になるまでに時間がかかって、「こう返せばよかった」と後で思うことも多々ありますが。

 人には、それぞれの人生があります。病気かどうかに関わらず、一生のなかで、できることも、できないこともあります。したかったことができなくなるのは残念だけれど、だれかと深く関わるなかで、その人の人生の一部を自分のことのように見ていけるかもしれません。また、今の自分にしかたどれない生き方や喜びもあるはずです。その喜びを、私もだれかと共有していけたらと思います。


木口マリ

「がんフォト*がんストーリー」代表 執筆、編集、翻訳も手がけるフォトグラファー。2013年に子宮頸がんが発覚。一時は人工肛門に。現在は、医療系を中心とした取材のほか、ウェブ写真展「がんフォト*がんストーリー」を運営。ブログ「ハッピーな療養生活のススメ」を公開中。

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