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星湖舎・金井一弘の「読み逃したくない1冊」
第5回「だったら楽しく過ごす」 荒井里奈『舌はないけど がんと生きる』

掲載日:2020年5月14日 7時04分

 闘病記を探している人から「明るい闘病記はありませんか?」と、よく聞かれる。気持ちが前向きになる闘病記が読みたいということだ。

 今回紹介する荒井里奈著『舌はないけど がんと生きる』は、まさにぴったりの闘病記だ。大きな口を開けて、ハンバーガーにかぶりつこうとしている表紙からして、とても闘病記には見えない。


40年間お世話になった舌にさよなら

荒井里奈著『舌はないけど がんと生きる』(中日新聞社)、1400円+税

 岐阜県高山市のホテルに勤務していた著者は、30代半ばから下顎の痛みを自覚し始める。2015年夏、40歳の時に舌を噛んだり、ご飯をポロポロこぼしたりと違和感が強まり、地元の口腔外科を受診。舌の左下に腫瘍があることを指摘される。

 舌がんと思いきや、紹介状を持って受診した総合病院で、左の舌下腺に5㎝もの腫瘍が見つかる。腺様囊胞がん(Adenoid cystic carcinoma、略してACC)という希少がんだった。

 総合病院では手術ができないといわれ、岐阜大医学部附属病院を受診。結局、セカンドオピニオンを受けた愛知県がんセンターで、同年9月16日に舌をほぼ全摘する手術を行う。同時に下顎骨の一部や首のリンパ節も切除する、13時間半の手術だった。

 さらに、がんの再発転移を抑えるために、首から口腔内にかけて30回、計60グレイの放射線治療を受ける。
 術前の説明で「再び話せるようになるのは難しい」と聞かされた。ならばと、友人や親戚に、自分の声で病気になったことを伝える。妹たちと焼き肉店へ行き、よく焼けたタンを「さよなら、私のタン祭り!」と食し、ひんしゅくを買った。


よく喋り、よく食べる仲間たちとの出会い

 希少がんは情報が少ない。しかし、著者の入院した愛知県がんセンターには「つばめの会」という嚥下障がいのある人たちの患者会があった。
 そこで驚いたのは、舌を切除した人たちが楽しそうにお喋りをし、普通のご飯を食べていたことだ。先輩患者の体験を聞いて、ここまで回復するんだと感激する。

 さらに、2016年夏に東京でACC患者の浜田勲氏が立ち上げた患者会「TEAM ACC」と出会い、友だちの輪が広がる。

 術後は放射線治療の副作用で、しばらくは口から水分も栄養剤もとれず、胃ろうを選択する。しかし、「食い意地は一番の薬!」「おいしさは生きる喜び」と考える著者は、口から食事するリハビリを始める。

 最初は、おかゆやスープをミキサーにかけた離乳食のようなもの。やがて、薄く切ったなすを使った麻婆なすや玉子かけごはんなどを丸呑みする。
 次に、噛んで食べることに挑戦。まずはうどんで練習し、次に牛丼。肉はスプーンと箸で歯の上に移動させて噛む。カレーライスやカツレツまで噛んで食べられるようになった。

 一方、発音のリハビリは、言語聴覚士から代替の発音法を学ぶ。タ行は舌の代わりに下唇を噛んで発音し、カ行は口の中のスペースを狭めて発音する。これが難しく、マウスピースをつけることで、口の中のスペースを狭くしてなんとか解決。

 こうして苦しいリハビリを経て、それを成し遂げたことが大きな自信となっていく。友だちとよく喋り、笑い合い、カラオケで歌う。いつしかハンバーガーやフライドチキンまで食べられるようになった。

 ある時、医師と会食した際の会話が愉快だ。
「舌、あるんだよね?」「いえ、ないです」「???舌、あるんだよね!?」「いえ、ないんですよ(笑)」「僕の今までの認識では、舌がないと話せないし、食べられないと思っていた」

 医師でさえ驚くほどの回復ぶりだった。
 こんな医師や家族とのコミカルな会話が随所にあって楽しい。


猫舌堂が開発したスプーンとフォーク(=猫舌堂提供)。


エビデンスは自分たちが作る

 2017年1月に肺への多発転移が見つかる。
 2018年1月には脳下垂体の近くにある海綿静脈洞に転移。放射線治療を受ける。さらに頸椎神経への転移が判明。シスプラチンとドキソルビシンによる抗がん剤治療に入る。
 同年10月のCTとMRIの結果、海綿静脈洞のがんはほぼ消滅していた。ただし、肺の転移はその後も変わらず存在している。「がんも私の細胞の一部、うまくつき合って生きていきます」と家族を元気づける。

 希少がんは治療法も少なく、余命とかもわからない。「ACCに効く抗がん剤はない」ともいわれているが、数が少ないからデータがないだけ。エビデンスを作っていくのは自分たち患者自身だと自覚する。

 そう思えるようになったのも、「元気に生きる仲間たちと知りあい、体験に基づく知識を得られたからです」と。

 だから自身も、ACC患者として積極的に行動する。例えば、舌の代わりに口の中で食べ物をかき混ぜたり奥に運んだりしやすくし、口腔内を傷つけない小さめのスプーンやフォークを開発する「猫舌堂」という事業に協力する。看護学生への出前授業や、学会、イベントに、ステージ4でも高山を拠点に全国に出向く。

このスプーンとフォークを使うと、固形物を小さく切り分けやすい(=猫舌堂提供)。

 著者は読者に語りかける。
「泣いてがんが治るならどれだけでも泣くけど、泣いて過ごしても、楽しく過ごしても、流れる時間は一緒です。だったら楽しく過ごす。それだけです」
 生きている喜びを存分に受け取れる闘病記である。

 この闘病記には、食に関する「患者さんからのアイデア集」や「のみ込みやすくするための工夫」、「味覚障害、どう乗り越えた?」など、リハビリ体験やACCサバイバーたちの実例集が紹介されている。

 さらに、著者の友人でもある4名のACC患者の体験記が寄せられている。
「専門医に訊くACCのこと」として、国立がん研究センター中央病院・頭頸部外科長・吉本世一先生による解説も載っている。
 なお、この本は、中日新聞生活面連載の「舌はないけど」を中心に書籍化されたものだが、現在(2020年5月)も連載は続いている。

これまでの、闘病記出版20年 星湖舎・金井一弘の「読み逃したくない1冊」はこちらよりご覧いただけます

金井一弘(かない かずひろ)
株式会社星湖舎(せいこしゃ)社長、NPO法人大阪公立大学共同出版会(OMUP)編集長。1956年、大阪府生まれ。99年に星湖舎を立ち上げ、主に闘病記や障がい者の本を出版している。良い闘病記には、「宗教や健康食品、民間療法に導かない。家族や会社・学校との関わりや社会情勢が描かれている。病院や医師の批判に節度がある。治療過程がしっかり書かれている」と考え、他社の本も“診断”し、普及活動に取り組んでいる。毎年100冊以上に目を通す。星が好き。

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