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闘病記出版20年 星湖舎・金井一弘の
「読み逃したくない1冊」
第17回 妻は「生を見ているのだ」 川村湊著『ホスピス病棟の夏』 

掲載日:2021年6月7日 11時22分

 この本は、乳がんを患った妻・亜子さんが、聖路加国際病院のホスピス病棟に移った2017年7月28日から、8月30日に亡くなるまでの「ホスピス病棟の夏」と、妻の死後、文芸評論家として名高い著者が、腎臓病の人工透析を受け続けることになった「透析室の冬」の2つの作品からなる。 どちらも闘病記録だけでなく、ホスピス病棟と一般病棟の比較、がん治療と著者自身の腎臓病治療との比較も描かれていて参考になる。

半永久的に続くはずの日常の崩壊 

 2015年3月、妻は右の乳房が腫れて斑点状に赤くなっていることに気づく。 「ある日、妻が『おっぱいが腫れているの』と言い出した朝までは、それが半永久的に続くものだと、何の根拠もないのに、そう思っていた」日常が、失われていくプロローグだったと回顧する。  自宅のある千葉県我孫子市の総合病院で乳がん検査を受けたところ、精密検査が必要となった。紹介してもらった大学病院で生体検査をし、乳がんであると判明する。  大学病院の紹介状と生体検査の結果を持って、5月に聖路加国際病院の乳腺外科(ブレスト・センター)へ行った。そこで、乳がんの中でも比較的珍しいとされる炎症性乳がんと告知された。乳房にしこりがなく赤く腫れたりするのが特徴だった。  2016年1月、右の乳房を全摘し、左の乳房にもがんが出ていたので乳頭を中心に部分摘出をした。  リンパ節も全摘したのだが、予後はあまりよくなかった。右肩から指先まで浮腫による腫れがひどかった。また、手術痕の胸の潰瘍にも苦しめられた。毎日、ガーゼや包帯を取り替えないと悪臭や細菌感染に悩まされた。  自宅で患者や家族が包帯等の取り替え作業をする困難さや、訪問看護の制度を知るまでのアナウンス不足への不満も書かれている。  その後、放射線治療と抗がん剤治療(エンドキサン、ゼローダ)や分子標的薬(ハーセプチン)の使用が始まる。  2017年7月17日、前日から熱が高く病院へ駆けつける。血圧も低く、即入院となった。感染症による敗血症だった。ICU(集中治療室)での治療後、がん病棟へ移る。  しかし、乳がんの再発が見つかり、子宮への転移もあった。7月28日、ホスピス病棟へ移り、8月30日に亡くなった。学生時代に出会い、「文学的同志」として共に歩んできた妻であった。


ホスピス病棟は涙の少ない場所 

 ホスピス病棟に移って、ちょっと自由になった気がすると著者は書く。ナースの動きも、張り詰めた緊張感から少し解放されている気がするとも。  個人の病室も、常にドアをぴったりと閉めているがん病棟とは異なり、ドアはあるものの、それを開いてカーテンで目隠しをしているだけの部屋もある。  だからか、ホスピスは「涙の少ない場所」と著者は見て取る。 「暗い顔をした付き添いの家族たちが待合室(ラウンジ)のソファや椅子に坐り、押し殺したような声でひそひそとどこかへ電話しているといった状況は、ホスピス病棟よりも手術室のある四階や、ガン病棟の七階のほうが、もっと雰囲気的に“暗かった”ような気がする」  また著者は、ホスピス病棟は治療を行わない、希望のない死と向かい合う場所のように思っていた。  だから、ホスピス病棟で、妻と自分のこれまでの「生」を総括し、文章によってまとめ上げようと考えた。ところが、生と直面している妻は、死を見ているのではなく「生を見ているのだ」と気づいた。ホスピス病棟は、本当は「生」と向き合う場所なのではないか、と考えるようになった。


人工透析を通して見えたこと 

 著者自身は、糖尿病と腎臓病を抱えている。  著者の母親も糖尿病からくる慢性腎臓病で長い間人工透析を受けていた。83歳で亡くなってから13年が過ぎるのに、いまだに腎臓病の治療が腎臓移植か、腹膜透析か、人工透析かの治療法しかないのが、著者には不審だった。  一方、がん医療は日進月歩だ。「特効薬の開発だけではなく、治療そのものの根本的な改革が期待され、実現している」。 「人工透析は、いわば延命手段だ」と著者はいう。その人工透析を、週に3回通院しながら、一生涯続けなければならない。 「人工透析を続けたとしても、寿命が保証されるわけではない」 そういう意味では、人工透析がホスピス問題とつながっていると著者は指摘する。


同じ境遇の人にしかわからない 

『ホスピス病棟の夏』(田畑書店・1980円=税込)

 文芸評論家らしく、闘病生活を送った文化人やその闘病記が多く紹介されている。  さらに、「妻に先立たれた夫の書いた本が目に付くようになった」と、川本三郎や江藤淳などの著書を紹介し、この受難が自分だけではないことに、慰めを見出そうとした。 「読んだあとの索漠たる孤独感は、やはり同じ境遇の人にしかわからないものだろう」と書き記す。  また、「どんな本にでも書いてある」として、がん患者となって妻が怒りっぽくなり、コミュニケーションの取り方が難しくなったことを赤裸々に記録している。 「病気になるということは、それまでにできていたことが徐々にできなくなるということだ」「だから、それができないことに直面すると、いっそう神経を逆立てさせるのだ。苛立ったり、意気消沈する妻を見るたびに、私も苛立ち、沈んだ気持ちになる」  それは誰しも、病気になったことをつくづく恨めしく思う瞬間だろう。  がん患者の家族には共感される内容が非常に多く書かれている。  たくさんの本を書いてきた著者が、病気と向き合ったひと組の夫婦像を、卓越した文章でじっくりと描いている。気持ちを重ねながら、心にしみ入るように読むことができた。


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金井一弘(かない かずひろ) 株式会社星湖舎(せいこしゃ)社長、NPO法人大阪公立大学共同出版会(OMUP)編集長。1956年、大阪府生まれ。99年に星湖舎を立ち上げ、主に闘病記や障がい者の本を出版している。良い闘病記には、「宗教や健康食品、民間療法に導かない。家族や会社・学校との関わりや社会情勢が描かれている。病院や医師の批判に節度がある。治療過程がしっかり書かれている」と考え、他社の本も“診断”し、普及活動に取り組んでいる。毎年100冊以上に目を通す。星が好き。

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