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第10回 人の痛みを思うとき 
木口マリの『がんのココロ』

掲載日:2018年10月18日 9時27分

人の痛みを思うとき

 経験は、いずれも貴重なものだと、私は思っています。経験で知ることは膨大で、まさに「百聞は一見にしかず」。しかし、ひとりで全てを経験することはできません。今回はその中でも、「経験したことのない“人の心の痛み”を思うこと」についてのお話です。  

闇やら、闇鍋やら

 人間の感情というのは不思議なもので、ウン十年生きてきて「たいがいのことは感じてきたはず」と思っていても、ある日突然、初めての感情に出会うことがあります。「こんな気持ちになるなんて!」というやつです。それが“Love”とか“Happy”とかだったら文句なしにうれしいことだけれど、時として“絶望的な気分”や“空虚”がやってきて、心が闇で覆われてしまったりもします。闇どころか、ドロドロな闇鍋みたいなものにどっぷり沈んでしまうこともあるかもしれません。  そういうことはだいたいにおいて唐突に現れ、「あ!」と言う暇もなく心を飲み込んでしまいます。そしてしばらくすると、それが無かったときのことが遠い世界のように思えて、余計に切なくなったりします。「もう、そこに戻ることはできない」という思いにかられることもあるでしょう。“遠い世界”にいる人たちとは何かが違ってしまって、なんだか歯車が合わないような感覚になることも。  がんになって、そのような心理体験をした人は多いと思います。私の心にも、病気が発覚して以降、様々な闇やら闇鍋やらがやってきました。その中でも特に異質だったのは、ストーマ(人工肛門)が登場したときです。  

とてつもない落ち込み、意外すぎる出会い

棘(とげ)ばかりに見える枝にも、時がくれば花は咲きます。

 私のストーマは、あらかじめ計画されていたのではなく、何の前触れもなく登場しました。がんの治療が一段落して、「年末は家で過ごせるな。門松とおもちを買わなくちゃ」などとやっているとき、不意にモーレツな腹痛に襲われて緊急手術となり、目覚めたらストーマがお腹にいた、という流れでした。  そのときの心の落ち込みは、とてつもなかったことを覚えています。手術直後に「人工肛門にしました」という言葉を聞いたときには、横たわった体がベッドの奧深くに埋もれていくのを感じたほどでした。  それからは全てがわずらわしくなり、家族にも病院スタッフにも、誰にも近づいてほしくないという有様。近づいて来ることを拒否したりはしないのだけれど、心底「ほっといてくれ」と思っていました。普段はだいたいにおいて愛想のいい私(自称)ですが、ほとんど口もきかなくなってしまいました。  そんな自分の中にあるのは、のしかかる泥のような重みだけ。夜になるのも、朝が来るのも、全てが重いだけのものと化していました。「どうしよう」とか、「辛い」とかを思うのでもなく、ただじっと、無心で泥の中に座り込んでいるような気分でした。  それは、私が初めて経験した心理状態でした。自分の心が、全てを遮断するほどにまでなってしまうとは、思ってもみなかったことです(ストーマになることも、内部障害者になることも思ってもみなかったことですが)。  ただし、これには後日談があって、ストーマの登場から5日目の朝に、突然「パチッ!」と立ち直りました。以降、一度もストーマに関して落ち込んだことはありません。それどころか、しばらくしたら大変に気に入ってしまうという。ストーマは、「忌み嫌うもの」ではなく、「私に力を与えてくれる存在」となりました。数ヶ月後にストーマを閉鎖する(お腹の中に戻す)ことになったときは、一生そのままでいようかと真面目に検討したほどです。  この話をすると、ほとんどの人が「え?」という顔をします。過去の私も、多分同じ反応をするでしょう。  

「経験した人にしか分からない」のなら

そばにいる。それだけでもあったかい。

「経験した人にしか分からない」と、人は言います。それは当然その通りで、経験したことのない感情を、経験したことがない人が分かるはずがない。食べたことのない食べ物の味が分からないのと同じくらい、分からないはずです。だとしたら、経験をした人も、していない人も、「相手(もしくは自分)には、分かるはずがない」ということを前提にして、どうしたらいいのかを考えるべきなのかもしれません。  私が、がんからの一連の治療の中で実感したことのひとつは、「世界には、体験したことのない辛さはたくさんあって、感じたことのない感情もまだまだある」ということです。そして、「それらを今、体験したり感じたりしている人がいる」ということでした。    人間は、自分が感じたことがないことを、感じることはできません。世の中にどんな苦難があるのか、その全てを知ることも、多分できません。しかし、「自分が理解できる範疇以上のものを抱えている人がいる」ということをしっかり心に留めておくことができれば、その人の本当の痛みを知ることができなくても、心はそばにいてあげられるのではないかと思います。また、無意識に人を傷付けることも避けられるかもしれません。 「経験したことのない人には分からない」もしくは、「人の立場に立ってみるなんて無理な話」と言ってしまうのは簡単です。しかしそれで終わってしまうのは、人としてもったいないものがあります。「分からないなりに、どう自分のことを理解しようとしてくれているのか」「自分は何を相手に思ってあげられるのか」を、お互いに考えることが大切ではないかと思います。  

人の痛みを思うとき、心に持っていてほしいこと

 私たちは、すでに起きたことを無かったことにはできません。一度経験してしまえば、まだ経験していない人とは、確実に何かが違っています。おそらくは、経験する前の自分とも違っています。経験とは、積み重ねていくことで次々に新しい世界を自分に取り入れ、さらに別の世界へ足を踏み入れていくことなのだと思います。 「まだ経験したことのないもの」は、耐えきれないほど苦しいものかもしれません。けれどその中に、想像できないほどのすばらしい意外性を含んでいることも多々あります。時間が経って、それが現れてくることも多い。それらは、経験していない人には「心の痛み」以上に理解を超えるものでしょう。  人の痛みを思うとき、そこに必要なのは思いやりで、哀れみではありません。また、人から見れば苦しみしかないように思える経験をした人は、もしかしたらそれ以上のものを得ている人かもしれません。想像しやすい視点で思うだけでなく、想像できない部分まで包み込むような気持ちを心に置くことができたら、いろいろなものが見えてくるだろうし、その気持ちはきっと相手にも伝わるのではと思います。

がんのお友達が作ってくれた和紙の灯り。“想い”の灯は、やわらかくあたりを照らしてくれます。

木口マリ

「がんフォト*がんストーリー」代表 執筆、編集、翻訳も手がけるフォトグラファー。2013年に子宮頸がんが発覚。一時は人工肛門に。現在は、医療系を中心とした取材のほか、ウェブ写真展「がんフォト*がんストーリー」を運営。ブログ「ハッピーな療養生活のススメ」を公開中。

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