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第40回 人工肛門は、お嫌いですか? 〜知られざる愉快な世界〜木口マリの「がんのココロ」

掲載日:2020年4月7日 13時00分

 人工肛門は、好きですか? 私は好きです。  

 一緒に過ごすうちに、たいそう好きになりました。前回の「がんのココロ39」では「人工肛門があっても、まあ、いいか」というくらいでしたが、そこからさらに「好き」にまでなってしまったのです。   

「なってしまった」という表現なのは、私自身にしてみても、それが「あまりに想像できる状態とはかけ離れている」と感じているから。そんなことが冗談抜きに言えるものなのか、と。   

 こんな心持ちになるなんて、不思議すぎる。でもこれは、私の本心なのです。   

「いつでもハッピー!」な人工肛門

 身体の奥深くで、人知れず活動する腸。  その腸が、「ある日突然、いとも簡単に人の手の及ぶ場所へ出現した」というと、たいそう劇的に感じられるのですが、事実、劇的でありました。  

 ちなみに人工肛門は、「人工」と名付けられてはいますが、肛門の代わりになるような人工物が取り付けられているわけではありません。お尻に設置してあるのでもありません。単純に、お腹から「ニョ」と腸の切り口が出ています。  つまりは、お腹に目を向けるだけでいつでも腸が見られるという。一生のうちに、そんな機会に恵まれることなど、なかなかない。  

当時の日記に描いていた「ストーマ(人工肛門)デイズ・イラスト」。

 キャーとお思いでしょうが、ある程度の心の余裕を得られれば、なんてことはない。なんせ自分ですから。  

 これ幸いと眺めることしばし。  

 その腸、実に愉快。  私なんてお構いなしに、一人で勝手にウニウニ動く。その様子がいかにもゴキゲン。ルンルン感満載。  

 朝は、さらに痛快。  目覚めた直後にふと見ると、腸はダラーンと伸びきって半寝状態。いや、完全に寝ている。  

 寝ている間にさっさとお手入れをしてしまうべく、下から持ち上げようとすると、とたんにグッと力を入れて抵抗。「フンッ」とそっぽを向く。それを何度もやる。よほど、無理に洗われるのが嫌いらしい。  

 ときにはお手入れ中にピューっと水を吐く。まるでイタズラ好きな小便小僧(私の人工肛門は小腸のため、お尻での排泄とはかなり雰囲気が違うのです)。  

続「ストーマデイズ・イラスト」。

 このように、だいたいにおいて自由気ままに行動しています。それも、わたしの意思とはマッタク関係なく。  おのれの感情を持っているのではないか、というくらいにいつでもハッピー。それが、私の人工肛門。  

「私」は、私だけのものではない

 たとえ私の気分が落ちていようとも、お腹を見ると楽しげないきもの(?)がいるのです。「腸」ということを忘れたら、めちゃくちゃカワイイ。  ……いや、忘れるどころか、腸だからこそ、なお愛おしいと感じます。  

 気ままにノホホンとしているように見えて、一生懸命、私を生かすために活動してくれているのです。腸閉塞になったときは、私の命をつないでくれたものでもあります。  

 そこで思った、体のこと。  よくよく考えてみると、腸以外でも、心臓や肝臓などの臓器、一つ一つの細胞でさえ、私の意思とは関係なく活動し、身体を生かす努力をしています。  

 意識は「私」であるけれど、この身体はたくさんの力によって生かされているのだと思いました。それらは、生まれてから死ぬまで、「私」とずっと一緒。ここまで一緒にいるものってほかにありません。  

「私は私であるけれど、私だけのものではない」  

 そう思うと、身体への感謝の念が湧いてきました。これまで結構適当に扱ってきたけれど、これからは身体を構成するすべてを大切にしていきたいと思いました。それが、意思を持った「私」の責任ではないかと思います。  

 人工肛門も、いかに妙な名前であっても、愛らしいうえに命を守ってくれている。それを好きにならないわけがありませんでした。  

 よく、「人工肛門がお気に入りだ」というと、不思議がられます。実際、登場直後は一世一代の落ち込み具合でした。  

 それからほどなく、とても大切で、大好きな存在にまでなったわけです。しかし今思えば、気に入ってしまうのは至極当然のことだった、と思うのでした。  

どんなものにも、知られざる一面がある

知られざる世界を垣間見てみた。


 私にとって人工肛門とは、「旅先で巡り会って、それからしばらく一緒に旅を続けた友人」のようなものでした。  

 ともに始めた旅は楽なものではなく、険しい山やごつごつした岩場の道。そんな旅のなか、たとえ私がそっぽを向いていたとしても、ものも言わず、決して裏切ることもなく、ずっと私を支えてくれていました。  

 お別れが近づくことが、とても切なかった。人工肛門があることに何の不都合もなかったし、閉鎖(腸をお腹に戻す)せず、ずっとそのままでいようかと思ったほどです。(※注)  

 閉鎖したと言うと「よかったね」と言われますが、私は全然うれしくありませんでした。もちろん後悔はしておらず、腸が一番快適であろう場所に戻せたと思っています。  それでも、今でも時折、遠い異国への旅に出た友人でも思うかのように、「どうしているかな」などと考えたりしています。すぐそこの、自分のお腹のなかにいるのですがーー。  

 人工肛門との出会いのなかで改めて確信したのは、「どんなものにも、知られざる一面が必ずある」ということです。  

「知られざる一面」には、いい面・不都合な面のどちらもがあって、心の状態によって目につきやすいものが変わってきます。心が落ち着かないときには、なかなかいい面は見えにくい。「そんなものはない」と一蹴してしまいたくなることもあります。  

それをきれいと思うかどうかは、その中に何を見ようとするかによると思います。


 でも、そんななかで「いい面」を見つけられたなら、それは単にそのときだけの「いいもの」ではなく、もっと大きな意味があると思っています。見つからなかったものを見つけられるようになるのは、新しい視点を手にするようなもの。ほかの出来事のなかにも、いいものを見つけやすくなっていくはず。  

 ただそれは、無理やり探すものでもないと思っています。「きっとある」という思いを、心の手のひらのなかにギュッと持っていれば、そのうち自然にやってくるものです。  

 人工肛門との日々は、そんな新たな視点でいっぱいでした。今後の生き方や考え方にも大きな影響を与えてくれたと思っています。  

(※注:人工肛門は「一度なったら一生モノ」というイメージがありますが、一時的に造って、のちに閉鎖することも多々あります。医療って本当にスゴい)  


木口マリ
「がんフォト*がんストーリー」代表 執筆、編集、翻訳も手がけるフォトグラファー。2013年に子宮頸がんが発覚。一時は人工肛門に。現在は、医療系を中心とした取材のほか、ウェブ写真展「がんフォト*がんストーリー」を運営。ブログ「ハッピーな療養生活のススメ」を公開中。
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