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佐々木常雄の「灯をかかげながら」
第9回 揺籃(ゆりかご)のうた

掲載日:2020年9月23日 9時30分

 右手を握り、小さな声で繰り返し

 Fさん(83歳男性)が教師をされていたのかは分かりませんが、息子さんが「父は教育者として名をはせました」と言われたのが印象に残っています。

 Fさんは膵臓がんを患い、肝臓転移が悪化し、すでに末期の状態でした。

 入院していたある日、意識がなくなり、次第に血圧が下がってきました。

 私は、その朝、電話で息子さんに、「もう、2、3時間しかもたないかも知れません」と話しました。

 奥さん(80歳)は、その日の朝も早くから病院に来られていました。私たちに病状を聞いてくることもなく、私たちも息子さんにすべてを話しているので、特に説明をすることもありませんでした。

 奥さんは、ベッドの枕元の椅子に座り、Fさんの右手を握られ、小さな小さな声で歌っておられました。 「揺籃(ゆりかご)のうた」でした。

 ゆりかごのう~たをカナリヤが歌うよ~ ねんねこ、ね~んねこ、ね~んねこよ  ゆりかごのうえに ビワの実がゆれるよ ねんねこ、ね~んねこ、ね~んねこよ  ゆりかごのつなを 木ねずみがゆするよ ねんねこ、ね~んねこ、ね~んねこよ

 

 北原白秋が作詞した童謡です。この歌を、繰り返し、繰り返し、2時間経っても続けて歌われていました。

 看護師が血圧を測りに来た時などは、止めましたが、いなくなるとまた、歌い出しました。

 失礼ながら、私は{83歳の老人に……その歌は赤ちゃんに歌う歌でしょう}とか、そして、{歌っても、意識がないFさんには、聞こえるはずはないのでは}と思ったりしていました。

 Fさんは、意識が戻ることもなく、次第に呼吸が弱くなり、午後になって亡くなりました。

 私は死亡診断書を書き、看護師は死後の処置をして、そして葬儀屋が来て、霊安室に運びました。病院の地下の出口から、看護師数名と私は、Fさんの乗った霊柩車に向かって深く頭を下げ、見送りました。助手席には息子さんが乗っていました。

 私は、奥さんに「揺籃のうた」を選んで歌われた訳を聞きたいと思っていましたが、もう先に帰られて、お会いできませんでした。


 安らぎの歌

 それから数年経って、緩和医療のある講演会で、講師がこんな逸話をされました。

 終末期となったある胃がんの患者さんが、点滴と酸素吸入をしていて、苦痛に伴って興奮状態となった。家族や担当医が話しかけたり、手を握ったりすることくらいではおさまらない。落ち着かせるのが、とても大変であった。

 鎮静剤の注射をするとようやく静かになって、それから朦朧として、その後、掛け声に反応もなくなり、意識がなくなった。

 それでも、顔をしかめたり、時々手足をバタン、バタンと大きく動かしたり、誰かが見守っている必要があった。

 その患者さんは、以前ヨーロッパで、長い間、音楽関係、特にクラッシック音楽を中心とした仕事をされていた。そのことを聞いた担当医は、自分の部屋からCDが聞けるポータブルラジオを持ってきた。そして、部屋にはバッハの曲が流れた。意識がなく、掛け声にも全く反応しない状態なので、患者さんにその音楽が聞こえているかは分からない。

 しかし、しばらくして、手足の緊張はなくなり、表情が穏やかに、安らかになったのである。

 その後もクラッシック音楽を流していて、患者さんの表情はとても安らかで、鎮静剤などはまったく使うことがなかった――。

 この話を聞いて、私はFさんの奥さんが歌われた、あの「揺籃のうた」を思い出しました。

 あの時の、奥さんが小さな声で、繰り返し歌われた歌が、意識のないFさんに聞こえていたかどうかは分かりません。

 それでも、きっとFさんには安らぎの歌だったのです。 「揺籃のうた」を聴くと、私は、奥さんが繰り返し歌われた、優しい小さな声がいまでもよみがえってきます。

 私は、息子さんに「Fさんの奥さんは、その後お元気ですか?」と何回か電話で伺いたいと思いながら、そのままになってしまっています。

シリーズ「灯をかかげながら」 ~都立駒込病院名誉院長・公益財団法人日本対がん協会評議員 佐々木常雄~

がん医療に携わって50年、佐々木常雄・都立駒込病院名誉院長・公益財団法人日本対がん協会評議員の長年の臨床経験をもとにしたエッセイを随時掲載していきます。なお、個人のエピソードは、プライバシーを守るため一部改変しています。


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