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夕陽のがんマン
~ステージ4の前頭洞がんを通して見えたもの~
第4回 一喜一憂ではなく百喜一憂しよう 
牧村 健一郎 

掲載日:2020年12月16日 10時00分

 ジャーナリストの牧村健一郎さん(69)は、2016年6月に東京医科歯科大学医学部附属病院で前頭洞がんという希少がんの手術をした。術後、抗がん剤入院2回と2か月間の放射線治療を受けて、ようやく年を越した。モノが二重に見える複視などは好転しなかったが、なんとかひと山越したかに思えた。しかし、試練はまだ続いた。それを乗り切った気持ちの工夫とは――。

 知人がいきなり「本当にマキムラさん?」

 10キロほど体重が落ち、体力低下は著しかったが、2017年の年明けからは少しずつ、社会生活に復帰し始めた。予定されていた漱石の講演もすませ、春には京都に旅した。ただ、6月に観た長時間のオペラ「ジークフリート」(新国立劇場)は体調不良で中座した。  数年ぶりに会った知人には、いきなり「本当にマキムラさん?」といぶかしがられた。手術によって目の周りなど面相が少し変わったからだった。  6月下旬、手術1年のMRI検査があった。がんの再発・転移は、がん患者にとって、もっとも恐ろしい。がんは治る病気といわれる最近では、がん告知の衝撃は以前ほどではないが、再発・転移の知らせは重い。 「がんは必ず再発するものだと覚悟したほうがいい」という新聞に載った患者の言葉は、赤い線をひいて読んだ。再発だと、再手術や放射線照射は難しく、抗がん剤が頼りになるケースが多いという。  どのがんでも、再発・転移は術後1、2年が圧倒的に多いそうだ。とくに前頭洞がんはその傾向が強いという。祈るような気持ちで検査を受け、数日後、結果を聞きに病院へ行った。

明治17年創業の神田まつや。昼時には行列ができる。

 ノートには、異常ありの場合の質問、例えば新しいがん治療薬オプジーボは使えるか、なども記し、こころの準備をした。オプジーボはそのころ、再発した頭頸部がんにも承認されていて、注目していた。  検査の結果はセーフだった。その足で病院近くの神田明神にお礼の参拝。境内を横切り、急な明神坂をくだり、神田淡路町の老舗蕎麦屋「神田まつや」に向かった。ビール小瓶と天ぷらそばで乾杯。このコースは、その後、節目ごとの定番になった。


 おでこの凸凹を治すために骨を人工骨を入れる

 次は、手術で切除した前頭骨に人工の骨を入れる再建手術だ。前頭骨がなくなり鼻と脳の仕切りがなくなったので、手術時に右太ももから皮膚、皮下脂肪、筋肉(組織)を取り出して、埋め込んだ。  そこに新たに人工骨(素材はハイドロキシアパタイトというリン酸カルシウムの一種。骨や歯の主要な構成物で生体組織になじみやすいとされる)を入れるのだ。  前頭骨がないから、おでこあたりがへこんで凸凹している。それを治すのだが、万一、何かに直撃されたら、骨がないと脳に重大なダメージを与えるから、その防止の意味もあるという。  もっとも私の場合、顔のほぼ中央だから直撃のリスクは小さいという。手術前は、日常的にヘッドギアが必要になるかもしれないといわれたが、その必要はなさそうだった。  人工骨はダイヤモンド型で長径5センチ、厚さ5ミリほど。欠損部に合わせたオーダーメイドだ。手術時間は3時間、全身麻酔するが、がん摘出手術に比べれば段違いの安全な手術で、順調なら10日の入院ですむらしい。  人工骨が生体にうまく適応できず、取り出すようなケースは5%ほどの低い確率という。だから9月5日、御茶ノ水駅近くの東京医科歯科大病院に安心して入院した。5度目の入院である。  手術は無事終わった。だが、その後の経過は芳しくなかった。微熱が続き、CRP(炎症反応)や白血球の数値が思うように下がらない。おでこの凸凹はほぼ消えたが、目の周りが腫れて、涙目がひどく、ときにぴくぴくする。だるい。回診に来る形成外科の先生は、「焦らず経過をみましょう」。退院予定の10日がたっても状況は好転しない。


 満員電車がなつかしい

 今回は4人部屋だった。そのなかにハタ迷惑な爺さんがいた。声が太く、カーテン越しでもよく聞こえる。巡回に来る看護師を呼び止めて、やたら長話をしかける。小声ではあったが、禁じられているケータイ電話を病室で使う。こちらの心身の状態がよくなかったせいもあり、イライラが募った。  押しつけがましいしゃべり方が、以前職場で一緒だったガラの悪い上司に似ていて、さらに不愉快になった。今思えば、当人も老齢になって入院し、心細かったのだろうが、当時は思いやる余裕はなかった。  

御茶ノ水駅から見える東京医科歯科大学病院。病室から電車の発着音が聞こえる。

 
 入院は長引いた。朝は御茶ノ水駅を通る中央線の走行音で目が覚めた。むしろ、浅い眠りのうちに始発電車の音で朝を知ったといっていい。またどんよりした一日が始まる。御茶ノ水駅は中央線と総武線の上下4本が通るが、音を聞くだけで、だいたいどれか、判別できるようになった。  朝8時台はひっきりなしに電車が通る。満員電車だろう。通勤時は嫌悪感しかなかった満員電車が、妙になつかしかった。

 うらやまし ギューギュー詰めの 東京行き

 ある朝、顔見知りになった病室掃除のおばさんと話をした。今はかすんで見えないが、冬の快晴の日には、この病室からビルの谷間に雪の富士山が見えるという。へえ、じゃあまた冬に入院するかな、と軽口をたたいた。むろん軽いジョークのつもりだった。


 ころんだころんだコロンブス

 3、4日ごとに血液検査をする。半日後に結果がわかる。毎回、期待と不安が交錯する。よく、検査の結果に一喜一憂するな、という。その通りだ。しかし、患者に気にするなというのは無理だ。  私はよく思った。一喜一憂ではなく百喜一憂しよう。悪かったら落胆するのは仕方ないとして、少しでも良かったら大喜びしよう、ガッツポーズをしよう、単純な奴と笑われてもいいや、と。気分を過度に落ち込ませないためには、いろんな工夫、自己暗示が必要だ。  家族のほか友人がときどき、見舞いに来てくれた。友人とは言葉遊びをしてなごんだ。 「こまったこまったこまどり姉妹」「しまったしまった島倉千代子」なんて語呂合わせで笑わせてくれる。こちらも「いかったいかったイカンガ―(昔のマラソン選手)」「ころんだころんだコロンブス」と対抗、一時、うっとうしさを散じた。声をだして笑えるのは、ありがたかった。    ようやく数値が安定し、10月1日、退院した。最もシリアスながん手術の入院ではなく、形成外科手術の入院のほうが精神的にきつかった。がんの場合は覚悟があったが、こちらは多少気がゆるんでいたからだろうか。


 せっかく入れた人工骨を取り出す

 退院して半月ほどすると、左目の下、鼻の脇あたりにふくらみが生じた。しばらくすると右目の下にも。おかしい。すぐに病院で先生に診てもらう。切開してなかの膿を取り出す。これは痛かった。検査に出す。菌は見つからない。  切開するとふくらみはしぼむが、しばらくすると再び膨れる。朝、鏡を見るのが苦痛だった。また切開する。洗浄する。抗生剤を飲む。変わらない。先生は首をかしげる。もし膿が内部にこもり脳に細菌が感染したら、もっと大変だった。  一進一退が3か月近く続いた。1日おきに御茶ノ水まで通院する。人工骨に細菌が付着し、炎症を起こし、膿が下部に下りて鼻のわきに溜まった、としか考えらない。発熱もなく膨らみもそう大きくないので、抗生剤でなんとか退治したいと、先生も私も頑張ったが、もう限界だった。  ついに、年明け早々に、人工骨を取り出す再手術をすることに決めた。最初の手術前に聞かされた人工骨が適応しない5%に当たってしまったのだ。原因は、前年の2か月間の放射線照射によって、生体組織の血流が悪化し、細菌がついた可能性が高いという。放射線の副作用か。  幸い、がんのほうはその後も順調だった。心配は人工骨の手術に移った。年末に出した年賀状には、「めでたさも 中くらいなり おらが春」という一茶の句を添えた。    翌2018年1月8日入院。また別荘生活である。手術のために事前に24時間心電図を付けると、深夜、脈が異常に遅くなり、30を切る時があるという。そのため、手術前に、股の付け根から臨時のペースメーカーを入れ、心臓に刺激を与える処置が必要になった。

 看護師に 下の毛剃られて もう観念

 手術は終わった。膿は解決したが、またおでこは凹んだ。元の木阿弥、くたびれもうけ、である。病室の窓からは、白い小さな富士が見えた。


 牧村 健一郎

 1951年、神奈川県生まれ。家は松竹大船撮影所の目の前で、1歳のころ、赤ん坊役で杉村春子らと“共演”した。早稲田大学卒業後、朝日新聞社入社、学芸部などに在籍。著書に『新聞記者 夏目漱石』(平凡社新書)、『旅する漱石先生』(小学館)、『漱石と鉄道』(朝日選書)、『評伝 獅子文六 二つの昭和』(ちくま文庫)などがある。退職後はチェロを習い、現在はバッハの無伴奏チェロ組曲第一番プレリュードを特訓中。

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