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佐々木常雄の「灯をかかげながら」
第19回 ある胃がん治療と1枚のCD

掲載日:2022年6月28日 17時08分

最初の入院、CDで中学の校歌を口ずさむ

 だいぶ前のことですが、高校の同級だったB君から、B君が中学生時代の同級生であったAさん(54歳 女性)の診察を依頼されました。

 Aさんは、近くの医院からの診療情報提供書を持参され、それには「胃がん、がん性腹膜炎」と書かれていました。

 ほとんど食べられない状態で、痩せており、採血結果は低栄養状態を示していたこともあり、即入院となりました。

 Aさんは、20歳を過ぎたと思われる息子さんと2人暮らしでした。Aさんの一番の心配ごとは、自分の病気のことと、息子さんのことのようでした。

 最初の入院では、幸い化学療法が奏効し、食事が摂れるようになって退院し、外来で治療を続けることとなりました。

 入院中、病状が落ち着いてきてからは、同級生のB君のことなどを話し、CDで中学の校歌を1日に何回も聞いたり、口ずさんだりしておりました。

 退院して、約2か月経って、2日前からまったく尿が出ていないとの連絡があり、緊急入院となりました。

 CT検査で、がん性腹膜炎が、両側の尿管を閉塞させ、腎盂が大きくなっている(水腎症)ことが確認されました。つまり、腎臓そのものが悪いのではなく、がん性腹膜炎のために尿が膀胱まで流れていかない状態でした。

 泌尿器科医に、局所麻酔で腎瘻を造っていただきました。太い管が、左の背腹部から左腎臓(腎盂)に入り、その管から尿が出るようになって尿毒症は改善しました。


がん性腹膜炎が悪化、ご臨終に

 Aさんは、前向きに治療を希望され、私の説明に納得されて、抗がん剤治療を再開しました。

 入院中、息子さんは時々見舞いに来られました。息子さんは、病状についての説明を淡々と聞いていて、質問してくることもありませんでした。

 しかしAさんのがん性腹膜炎は次第に悪化し、体全体の状態も悪くなって、昏睡の状態が続くようになりました。Aさんの耳元で、CDの中学校の校歌を繰り返しかけてみました。しかし、やはり何の反応もありませんでした。

 それから、一週間後のある日の午後、血圧が次第に下がってきました。

 息子さんが傍におられる中で、Aさんは永眠されました。

 ご臨終から、しばらく時間が経って、Aさんの体から、腎瘻の太い管を抜き、看護師さんが清拭(エンゼルケア)をしてくれることになりました。 別室で、息子さんと私だけになりました。

 私は息子さんに「お母さんの分まで、頑張って生きて下さい」と言いました。彼は、涙を流しながら、頷いて「うん」と答えてくれました。

 私が言った「お母さんの分まで・・・」との意味は、時間的なことだけではなく、母親が息子さんを思う気持ちも含めてのつもりでしたが、伝わったかどうか分かりません。

 葬儀屋が到着し、地下の霊安室から、ご遺体を霊柩車に乗せました。死亡診断書を持った息子さんは、運転助手席に乗りました。友人の方、看護師スタッフと共に、一斉に頭を下げて送り出しました。

 あれから、息子さんからも、Aさんの友人からも連絡はありません。


息子さんの健やかな暮らしを祈念

 友人の方は、校歌の入ったCDは何枚もあるからと、私に1枚置いてゆかれました。

 最近は、この校歌をネットで探してもなかなか見つかりません。どうも統廃合されて、この中学校はなくなってしまったようです。B君に聞くと「学校跡は町の公園になった」とのことでした。

 歌詞の中に中学校名が出てくる校歌を、私は時々、思い出して、CDを聞いています。

 息子さんは、あれからどうしただろうか?

 きっと悲しみを乗り越えて、元気で頑張っていてくれていること念じております。

シリーズ「灯をかかげながら」 ~都立駒込病院名誉院長・公益財団法人日本対がん協会評議員 佐々木常雄~

がん医療に携わって50年、佐々木常雄・都立駒込病院名誉院長・公益財団法人日本対がん協会評議員の長年の臨床経験をもとにしたエッセイを随時掲載していきます。なお、個人のエピソードは、プライバシーを守るため一部改変しています。


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