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第70回 旅立った兄からのおくりもの /木口マリのがんのココロ

掲載日:2023年6月9日 11時35分

 大切な人の死というのは、私たちにとてつもない試練を課すものだと、改めて思います。

 今年1月、義兄(あに)が亡くなりました。膵臓がんでした。

 義兄は姉の夫で、私にとって実の兄のような人。ここまで深く繋がりがある人を見送るのは、初めてのことでした。

 姉はもちろん、私にも打撃が大きかったようです。それからの数日間は時間の流れが曖昧になり、今日がいつなのか、どれくらい日にちが経ったのか、よくわからなくなっていました。物事の判断がワンテンポ遅くなっていたし、気づくとボーッと一点を見続けていることもありました。

 ついでに周囲から「目の下が青い」と言われ、クマなんてできたことはないと思いつつ見てみると、たしかに青っぽい。初クマです。

 しかし、そんななかでも新しく気づくことはあるものです。今回は、そんなお話です。

キグチ作、iPhone画の義兄。

●病院の一角での「愛の誓い」

“レジェンド”な義兄!

 義兄が旅立ったのは、新年を迎えたばかりの1月1日。太陽の光が心地よく注ぐ、晴れた日のことでした。

 昨年3月に、お腹の具合の悪さと背中の痛みで通院したところ、膵臓がんステージ4と診断。それから10カ月、たくさんの医療者、家族、友人たちに支えられて治療をおこなってきました。

 義兄は若いころからサーフィンが好きで、愛車のボルボにボードを積み、走り回っていたカッコイイ兄貴。あとで知ったのだけど、周囲からは「レジェンド」と呼ばれていたらしい。それでいていつも自然体で、少年のような純粋さと人懐こさがありました。

 姉が義兄と出会ったのは、就職して間もないころでした。社員研修で講師をしていた彼を見て「素敵な人だ」と感じていたといいます。しかしそこでは何も生まれず、お互いの人生が繋がったのは、それから20年以上が経ってからでした。時折ケンカをしながらも、離れがたい、仲のいい2人だったように思います。

 結婚を決めたのは、義兄のがんが見つかってすぐのころでした。病院の一角で指輪を交換し、退院したその足で、届を出しに行ったそうです(ちなみに私も証人の1人としてサインしました)。がんになったことは喜べないけれど、大きな幸せも降ってきたようで、私もとてもうれしかったです。

 医師に厳しいことを言われても、どんなに体調が悪くても、常に治る気満々だった義兄。その姿に、「この人だったら本当に治るかも」という気がしていたし、だからこそ旅立つ1カ月前まで、筋トレやゴルフや旅行もバンバン楽しめていたのだと思います。

●「もう一度だけでいいから目を開けてほしい」

病院の一角で指輪交換。

 けれどそれ故に、引き際があまりにあっけなく、「え?」という思いがしました。

 亡くなる2日前には、姉の運転で湘南までドライブに行っていたのです。その翌日から息苦しさで寝込んでしまい、サポートのために私も家を訪れることにしました。

 元日の、お昼ころのことでした。夜通し義兄に寄り添っていた姉は、きっととても疲れていたはず。義兄が心地よさそうに眠ったところを見て、少しの間、隣室のソファで目を休めていました。 「義兄も姉も、ちょっとでも休めてよかった」と私は思い、義兄のところから物音がしたらすぐに動けるようにと聞き耳をたてたり、時々振り返ったりしながらキッチンに立っていました。

 しかしほんのいっとき、フッと意識が別のところに消えた瞬間がありました。「おっと、いけない」とハッとして部屋をのぞくと、義兄の様子がおかしいことに気づきました。そんなわずかな間に、義兄は逝ってしまった。

 姉とともに大声で「たけちゃん、たけちゃん!」と名前を呼んだり、背中をさすったり。救急隊がバタバタとやってきて蘇生を試みる姿は、慌ただしくも真剣。そのすべてが非日常で、衝撃的でした。

 そのとき私は、「もう一度だけでいいから目を開けてくれ」と、心底願っていました。それは、まだ大丈夫なはずという思いと同時に、自責の念からの願いでもありました。

「私がいたから姉も気を緩められたのに。そのために来ていたのに」――その思いは心の奥に今もあり、暗い波のようにゆらゆらと揺れています。

●心から「ヨカッタ」と思うこと

ケーキ入刀!これが一緒に行った最後の旅行でした。

 ただ実際には、それがいたしかたなかったことも分かっています。その場にいた誰もが気の抜けた、一瞬に起きた出来事だったのです。

 もしかしたら義兄は、自分が旅立つと同時に、姉と私の「心配の念」を私たちの心からスルリと抜き取っていったのかもしれない。気が抜けたのは、義兄の優しさからのことだったのかもしれないと、思ってみたりしています。

 今もこのときの光景や感情は、胸に焼き付いています。これまで訃報というのは、「亡くなった」と知らせを受けるだけのものでした。もちろんそれはショックだけれど、その場で一部始終を見て、ただならぬザワつきを肌で感じることの衝撃は、まるで別物でした。

 ただ一つだけ、心から「よかった」と思うことがあります。それは、姉が1人でこの経験をしたのではないということ。
 同じ場面と空気を一緒に経験したからこそ分かり合えるものがあります。1人で抱えるのではなく、2人で思い返したり語り合ったりできるのは、姉のためにも、姉のそばにいる私としても、心の静寂につながっていると感じています。

●家族は、何もできないんじゃない

 家族は、患者本人とはまったく違う思いやつらさを抱えます。これまで、たくさんの家族や遺族の話を聴くなかで、それを強く感じてきました。初めて聴いたときは、「家族には、こんなに深いつらさがあったのか!」と、目が覚めるような衝撃があったものです。

 そのなかで、多くの家族から伝わってきたのは「無力感」でした。「愛する人が苦しんでいるのに、代わってあげられない」「何もしてあげられない」。姉も、そう感じたことがあったようです。

 でも姉は、こんなことも言っていました。
「たけちゃん(義兄)が痛みでつらそうだったとき、背中をさすってあげたら、表情がスーッと穏やかになったんだよね」
 きっと、心安らげる人がそばにいる安心感や、その人の手のぬくもりを感じることで、痛みが和らいだのでしょう。

 そのとき、ふとあることに気がつきました。当然ながら、本人の痛みやつらさを物理的に代わってあげることはできません。でも、そばにて温度が感じられれば、もっと強く感じていたはずのつらさが軽くなることがあるのです。

 それはつまり、苦しさを代わるどころか、「その人の中から、つらさの一部を消し去っている」ということではないだろうか。代わったり、分け合ったりするよりも、もっとすごいことができるのだ、と思いました。

 家族は、何もできないんじゃない。無力でもない。
 きっと、義兄もそれを感じていたはず。そう思うと、少し安らいだ気持ちになるのでした。

いつまでも兄でいてね!

 病気と向き合い始めたときから今にかけても、義兄は私たちにいろいろなことを感じさせ、新しい気づきを与えてくれています。

 それは、義兄からのおくりもの。そんなのなくてもいいから生きていてほしかったという気持ちはあるけれど、きっとこれからも、たくさんのことを手渡してくれるのだろうと思っています。

木口マリ
「がんフォト*がんストーリー」代表 執筆、編集、翻訳も手がけるフォトグラファー。2013年に子宮頸がんが発覚。一時は人工肛門に。現在は、医療系を中心とした取材のほか、ウェブ写真展「がんフォト*がんストーリー」を運営。ブログ「ハッピーな療養生活のススメ」を公開中。
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