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輝きを離さないで ~大腸がんの夫と、東京五輪は一緒に見られなかったけれど~

掲載日:2018年11月1日 14時10分

 ――もう一度、取材してもらえませんか? 今年6月、横浜市の鈴木潤子さんからメールが届いた。昨年7月、がんサバイバー・クラブの「がんと生きる」シリーズで最初にお話を伺った方だ。7月末、「東京五輪を一緒に見る、そしていつまでも ~大腸がんステージⅣの夫と生きる」と題した記事を掲載した。夫の裕人(ゆうじん)さんは、12月に旅立った。潤子さんは今もブログを続け、いずれ裕人さんに会う日が来たら「おっ、がんばって生きてきたな」とほめられる生き方をしたいという。  夫婦の輝きは、失われていない。(文=日本対がん協会 中村智志)
鈴木潤子さん。毎朝、裕人さんが好きだったコーヒーをお供えして、帰宅すると飲む。「コーヒーはあまり好きじゃないけれど」と笑う。
 フローリングの居間は静かな空気が漂っていた。コーギーの「はな」がすみっこの囲いの中でのんびりと横たわっている。15歳のメス。潤子さんは「花」のつもりだったが、裕人さんは「華」の字を当てていたらしい。

鈴木さんの自宅にある仏壇と机。裕人さんが好きだったものが供えられている。

 壁際の仏壇と低いテーブルには、裕人さんや家族の写真がある。大腸がんとわかる前の顔は、ふっくらとしている。ほっそりとした遺影とは別人のようだ。  テーブルに置かれているのは、ひまわりやガーベラなどの花、アーモンドチョコ、マドレーヌ、創作和菓子、スルメイカ、ガンダムの模型……。仏壇とその隣にある奥行きが浅く低い棚には、潤子さんが好きだというカエルの置物がたくさん座っている。  横浜市の梅林だった土地に立つ、小さな一戸建ての1階。晩年の裕人さんが過ごした部屋でもある。

ガンダムのプラモデルをあきらめたのに

「主人は記事をすごく喜んで、『ありがとう』と言ってました。『がんばろう』と思うきっかけにもなったそうです」  裕人さんが大腸がんのステージⅣとわかったのは、2016年の晩夏。記事は、それから1年近くのことを綴っていた。  10月初め、最初の抗がん剤で容態が悪化し、「ご家族を呼んでください」という事態になったこと。病院の特別室で、成人式を控えた娘の記念写真を家族4人で撮ったこと。12月7日の結婚記念日に夫婦で思い出の地を訪ね、その晩から潤子さんがブログを始めたこと。腸閉塞などで入退院を繰り返すが、腹膜播種は比較的安定していること……。  そして、「(夫婦で)東京オリンピックに行こうと思っています。柔道を見るんです。主人がやっていたから……いい目標になっています」という潤子さんの言葉を伝えていた。
 裕人さんは、2017年9月ごろまでは、痛みはあったものの、穏やかに過ごせた。  午前中か、うまくすれば午後2時か3時ごろまで、勤務先の自動車修理工場へ行く。工場長だった。一方で、3週間おきに通院し、抗がん剤治療を受けた。「アバスチン、エルプラット、5-FU」の3つの薬を点滴で入れる併用療法だ。  副作用で味覚障害になり、白米は「じゃりじゃりする感じでおいしくない」と嫌がった。魚は白身だけ口に含んだが、やはりおいしくはない。そうめん、にゅうめんのような柔らかくて消化がよいものを中心に、チョコレート、プリン、生クリームといった甘いものをよく口にした。自宅ではエルネオパ(高カロリー輸液)の点滴を入れていた。  ストマ(人工肛門)を付けていたが、あまり食べると、腸閉塞(イレウス)のようになってしまう。「イレウスっぽいな」。そう感じると、自ら3日間ぐらい絶食した。  8月半ば、主治医から「病院を去ることになった」と告げられた。その機会に、以前から周囲に勧められていたセカンドオピニオンを受けることにした。  何事も「調べる人」である裕人さんは、闘病の経過を記録していたノートに、名医情報をまとめたと謳うサイトで調べた医師の名前をずらりと書きだした。大腸がんの手術数の多い病院もリストアップしている。  そのうえで、東京都内のがんに強い病院を9月初旬に受診。しかし、期待外れに終わった。1時間も待たされたうえに、 「(抗がん剤の)セカンドラインは難しいだろう。手術もリスクが高いので無理です」 「(腹膜播種の専門病院に行くのは)無駄です」 「うちの病院に転院しても、することはないです」  といった答えしか返ってこなかった。  無駄? 医学的な判断がそうでも、もっと言い方があるのではないか。持ち時間を余して退出すると、潤子さんは泣いた。 「来なきゃよかったね。こんなことなら、プラモデル買えばよかった」  ガンダム好きの裕人さんがほしいプラモデルがあったが、2万円以上と値が張るので、あきらめたのである。
裕人さんのノート。日々の体調、治療、食事などを詳細に記録している。結婚記念日に夫婦で鎌倉・鶴岡八幡宮を訪ねた際には、階段のスケッチと「神様の『しれん』」の文字も。
買えなかったエンディングノート

 在宅医療を受けている地元のT医師に相談して、市民病院でセカンドオピニオンを受けることにした。  予約は10月3日。ところがその前日、便が詰まり気味で、朝から吐いた。「イレウスかなあ」。T医師を通じて市民病院に連絡して、そのまま入院した。  腫瘍外科の医師が病室まで来て、こう告げた。 「いま抗がん剤をやったら、100%死にます。お役に立てなくて申し訳ありません」  市民病院では治療を受けられない。だが潤子さんの中では、抗がん剤治療をしない期間に体力が戻れば、再び投与できるのではないか。そんな思いもよぎった。裕人さんも、治す気満々であった。
 潤子さんはその日のうちに、緩和ケア病棟への申し込みを勧められた。裕人さんには「緩和で痛みが取れたら、退院して別の病院で治療すればいいでしょ」と説得した。  緩和ケア病棟はなかなか空きが出なかった。一方で裕人さんは、痛みも消えて、1人でシャワーも浴びられた。大部屋へ移り、飴玉も舐めた。在宅に切り替えるという案も出たころ、再び痛みがひどくなった。そして10月24日から緩和ケア病棟へ入った。
 部屋は個室。トイレも付いている。飴やハーゲンダッツのアイスクリーム、生クリームを食べた。腸には水分ぐらいしか送らないように胃管を入れていたので、消化したら吸い出された。固形物は噛んで味だけ楽しんだ。おつまみ用のスルメイカが特に好きだった。  すたすた歩けることもあるし、リハビリもやった。「家に帰りたい」。裕人さんにはその思いが強く、病院側と模索もした。
 このころ、潤子さんはエンディングノートを買うことを提案し、書店に行った。ところが、立ち読みしているうちに、買う気が失せた。死への過程を現実的なものとしてとらえている人間には、酷な内容に見えた。
「俺、飲みに行きたい。何か飲みたいなあ」

横浜みなとみらいの世界のビールが飲めるパブで。

 11月に入ると、息子の大学推薦入学が決まった。このころ、家族旅行の話が持ち上がる。行き先は熱海。日程は12月7日、8日。7日は結婚記念日だ。  熱海の来宮神社はパワースポットとして知られており、境内の樹齢2000年の大楠(天然記念物)の周囲を1周回ると寿命が1年延びる、という伝説がある。潤子さんは、富士山が望める日本最長の歩行者専用吊り橋、三島の「スカイウォーク」にも行きたかった。  旅館探しは、裕人さんが担当した。「調べる人」の本領を発揮して、「点滴棒を持っていく。車いすで入る。家族用の露天風呂がある。ベッドがある」という条件を満たした旅館を予約した。  目標に向けて、裕人さんの体調も良かった。  11月12日。パシフィコ横浜で「がん撲滅サミット」が開かれた。「行きたいね」と話していたところ、潤子さんのブロ友さんたちも地方から来ることになり、「オフ会をしましょう」と盛り上がった。  会場はパシフィコ横浜近くのイタリア料理店。20人ほど集まったが、ほぼ全員がステージⅣだったという。約2時間。ウイッグのこと、肝転移のこと、手術の経験などを話した。来月手術という人もいたが、誰もが明るい。車いすの裕人さんが、いちばん“戦歴”が浅かった。吹っ切れたのだろう。 「俺、まだ全然じゃん。がんばれるな」  裕人さんの表情も明るかった。がん撲滅サミットは早々に引き揚げた。 「俺、飲みに行きたい。何か飲みたいなあ」 「じゃあ、飲みに行こうか」

横浜みなとみらいのモールで自撮り。

 潤子さんが勢いよく車いすを押す。裕人さんは手をぶんぶん回す。夫婦の気分が高揚している様子は、はたからも見てとれるほどであった。  パシフィコ横浜につながる「横浜みなとみらい」のモールに、世界のビールを飲めるパブがあった。2人はそこに入った。裕人さんは外国のビールを、車を運転する潤子さんはノンアルコールビールを1杯ずつ頼み、生ハムとピクルスをつまんだ。裕人さんはビールをすべて飲んだ(最終的には胃管から出す)。  パブを出ると、モールの中で自撮りした。バックはハート型の花のオブジェ。 「私のほうが顔が大きくなっちゃうから嫌だなあ」  潤子さんがごねると、 「じゃあ、隠してやるよ」  裕人さんがピースサインをするかのように、潤子さんの口の前に指を差し出した。


「やっぱり、ウチはいいなあ。ママ帰らないもんね」

 退院日が11月20日と決まった。市民病院の医療者だけでなく、在宅医療のT医師、在宅医療の看護師、訪問看護師、薬局の薬剤師など10人以上が集まり、対応策を練った。こんなに集まってくれたこと自体が、潤子さんにはうれしかった。  予定通り、20日に退院。 「やっぱり、ウチはいいなあ。ママ帰らないもんね」  この言葉を聞いて、潤子さんはジンと来た。  旅行に備えてイオンに買い物へ。吐き気はあるものの、ショッピング好きの裕人さんには楽しい時間だった。
 しかし、体調が良いのは見かけであり、医師からは「腸閉塞が治らないと次の季節はないでしょう」と伝えられていた。熱海行きが近づいてきた12月3日、体調を崩して入院。5日には血糖値が28まで下がってしまった。6日の午前3時ごろには、自ら胃管を抜いた。夏ぐらいから徐々に出ていた「せん妄」(軽度の意識混濁を伴い、幻覚や妄想、混乱などが起きる状態)が本格的になってきたらしい。  結局、旅行はあきらめて、7日の結婚記念日は緩和ケア病棟の病室で祝うことになった。  家族4人がそろったほか、潤子さんの友人2人も顔を見せた。潤子さんが、 「乾杯しよう。大学合格おめでとう! パパとママの結婚記念日だよね」  と声を上げた。裕人さんは缶ビールを1本、おいしそうに飲んだ。お寿司もサーモンかまぐろか、1つ半ぐらい口にして、飲み込まないように出した。  ただ、目つきも変わり、怒ったようになっている。会話はほとんど成立しなかった。
 潤子さんはヘルパー2級、介護福祉士の資格を持っていて、サ高住(サービス付き高齢者向け住宅)で働いている。だが、8日から休職して、病院に泊まり込んだ。  裕人さんはベッドに横になるのを嫌がり、トイレや廊下を盛んに歩いた。目的はない。潤子さんの目には「歩くことが、生きるという気持ちの表れじゃないか」と映った。  11日の午前3時には、無呼吸状態に。潤子さんが背中を叩くと、ヒュッと呼吸が戻る。鎮静薬の影響らしい。家族全員が集合したが、持ち直して、その日の午後には歩いていた。  19日には、3時間ほど自宅へ戻った。すると、病棟にいるときより顔つきがよくなった。カレーを3口食べて「おいしい」と喜んだ。潤子さんは病院に戻ると、もう一度、あきらめていた退院に向けての相談をした。  22日。ハーゲンダッツのバニラアイスを食べていると、ストマなのだろうか、おなかから、「グジュグジュグジュ、ピー」と珍妙な音がした。すると、裕人さんが声を上げて笑った。昔のままの笑顔だ。潤子さんもうれしくなった。 「私のことわかる?」  勢いで聞くと、笑いながら、こんな答えが返ってきた。 「すみません、わかりません」  潤子さんの気持ちは、ジェットコースターのように上がったり下がったりした。  裕人さんも浮き沈みがあったのだろう。潤子さんと看護師の会話に入れることもあれば、「新聞取って」と言われて渡したのに、何度も怒りながら同じことを求めることもあった。
「パパ、ありがとう」

 そして27日を迎えた。この日は、退院予定日だった。  前日から熱があった。朝8時。「おはよう」と声をかけると、「おはよう」と口だけが動いた。呼吸は荒い。血圧を測定した看護師が、いつもは告げる数値を言わない。不安がよぎった。やっぱり家に帰るのはやめようか。迷う潤子さんに、看護師が声をかけてくれた。 「1日でもいいから行っておいで。ダメだったら戻ってくればいいのよ。ここをお守りだと思って」  介護タクシーに荷物を積んだ直後だった。呼吸の状態がさらにおかしくなり、退院は中止。個室のベッドを家族で囲んだ。看護師が言った。 「あとはご家族だけで過ごしてください。何かあったらコールしてください」
 裕人さんは、1回息をすると、間が空く。家族が「次!」と念じると、また息をする。だんだん、「間」が長くなる。「次!」「次!」……そしてついに、「次」が来なくなった。 「パパの胸に耳を当ててみて」  潤子さんの言葉で、娘が裕人さんにおおいかぶさる。大粒の涙を流しながら首を振った。  息子は泣きながら、「まだ温かいよ」と裕人さんの手を離さなかった。  最後まで面倒を見てくれていた看護師が来て、脈を取った。 「まだ聞こえてるよ。話しかけて。耳は最後まで聞こえるから、いっぱい話しかけてね」  潤子さんの想いがあふれ出た。 「パパ、ありがとう、愛してるよ」  午後12時15分ごろのことであった。  裕人さんは、お風呂に入れてもらい化粧もした。寝間着から、熱海旅行へ着ていくはずだった服に着替えた。長く食べていなかったためやせていたが、いい表情をしていた。  お通夜は年明けの1月3日、葬儀はその翌日に執り行われた。戒名は「千稽法裕信士」。付けてくれた住職によると、千は「頭」、稽は「手先が器用でやさしい」という意味を込めてある。「頭」は、裕人さんが工場長を務めていたことから取った。 1991年の裕人さん、潤子さん。バイクが縁で仲良くなった。
ゆずの「うたエール」

「せん妄で、最後の1カ月ぐらいは、見たこともない主人でした。今まで積み上げてきたことが全部否定されてしまったみたいで、がんよりもせん妄のほうがつらかったですね。子どもたちもつらかったと思います。ずっと主人のままでいてほしかった」  ドラマや映画では、最後に「ありがとう」と言って旅立つ。潤子さんも、何となくそんな場面を思い描いていた。しかし、そういう時はこなかった。 「死亡診断書を読んでも、死因は不明なんです。全身が衰弱していたということでしょうか。残酷ですよね。がんで死ぬ、というほうが私には納得できました」  職場には1月10日ごろの復帰を打診されたが、戻れたのは1月下旬だった。役所の手続きで、戸籍謄本や住民票などに「除籍」「死亡」という文字を見るだけで涙が出た。
 2月、平昌(ピョンチャン)オリンピックが開かれた。応援ソングは、ゆずの「うたエール」。ゆずがこの曲を、公募で選ばれた2018人と合唱するテレビCMが流れた。「ゆず2018プロジェクト with 日本生命」だ。本来なら、裕人さんと潤子さんも合唱に参加するはずだった。  裕人さんが、いつの間にかネットで応募していたのだ。2人ともゆずのファンでもなく、潤子さんは12月初め、当選通知が届いて初めて知った。裕人さんが書いた応募理由は「誰かを応援したい」。1月6日の収録に備えて「うたエール」のメロディーと歌詞が送られてきた。曲は病室でも流していた。参加はかなわなかったが、収録後に事務局からTシャツが届いた。夫婦にとって、大切な記念になった。
つちぼとけに刻んだ「想」と「裕」

 4月、潤子さんは息子の大学の入学式に参列した。息子は大学生活を楽しみ、姉は忙しく働いている。思いのほか早く立ち直った子どもたちの姿に、潤子さんは安堵するとともに、ときに淡白すぎるように見えなくもない。潤子さんは、裕人さんの携帯電話をまだ解約していない。 「時間が経つにつれて、毎日泣くことはなくなったけれど、喪失感は逆に強くなった気がします。帰ってきて、今日こんなことがあったんだよ、と話す相手がいなくなった。やっぱりそこは、子どもじゃ埋まらない部分があるんですね」  いまは、日々の生活を充実させることを心がけている。もともと競泳をやっていたこともあり、6月に地元のスポーツクラブに入会して、水泳を始めた(その後、仕事が多忙になりいったん退会)。自動車を買い替えたので、ドライブにも行こうと思っている。  ブログはずっと続けている。9月には岐阜市で、ブロ友さんたちと会ってランチを食べた。女性ばかり9人で、ほとんどがサバイバーだが、会ったとたん、昔からの友達に再会した気がした。10月には娘の高校の役員仲間と静岡・浜松へ。11月にも東京ビッグサイトで開かれる「がん撲滅サミット」に合わせてオフ会が開かれる。 「主人の分まで楽しいことをやりたいな、と思っているんです。楽しまないと、いい人生だったって思えないでしょ。主人ができなかったことも含めて、私の人生かなあ、と。いずれ主人がいる世界に行って、もし会えたとして、『おっ、頑張って生きてきたな』とほめてもらえるような生き方をしていきたいなあ、と思っています」  ただ、楽しいことがあると、裕人さんの不在をかえって強く感じて、反動のように落ち込む。スーパーで他の夫婦が買い物をしている様子を見るだけでも涙が出そうになる。  この夏のある日、スタジオジブリの映画「かぐや姫の物語」の主題歌「いのちの記憶」を思い出した。 「なにも わからなくなっても……いまのすべては過去のすべて 必ずまた会える 懐かしい場所で」  せん妄でわからなくなった裕人さんを思い浮かべて、この一節が心に響いた。

潤子さんがつくったつちぼとけ。掌に載せたくなる。

 東京オリンピックは2人では見られなかった。しかし、夫婦の輝きは失われていない。  2人は高校の同級生だ。高校時代には、裕人さんが好きな子に告白するのをみんなで後押ししたという。20代半ば、バイクの免許を取った潤子さんが、バイク乗りの裕人さんにどんなヘルメットを買ったらいいのか相談したのを機に、親しくなった。  付き合って2年経っても、周囲に「友達です」と紹介する。「彼女って言うの恥ずかしいじゃん」。一方でカラオケが上手で、友人の結婚式で山根康広の「Get Along Together」を歌ったときには、周りの人が泣き出した。そんな人だった。夫婦でバイクのレースにも出場した。病室では、「Get Along Together」やバイクレースの映像も流した。  潤子さんは10月半ば、カルチャースクールの「つちぼとけ(土仏)」をつくる講座を申し込んだ。新聞広告に入っていたつちぼとけの写真に惹かれたのだ。  裕人さんを思いながら粘土をこねていると、無心になれた。周囲の音まで聞こえなくなり、心が穏やかになった。その10日後、家で、あまった土で1つつくった。  つちぼとけは高さ7、8センチから10センチほど。講師はつちぼとけで知られる寺院の住職で、背中に竹串で、般若心経から1文字を取って入れるよう指導された。潤子さんは迷わず、2体ともに「想」の字を入れた。  それだけではない。ちょっといたずらもした。つちぼとけの内側の、ちょうど「想」の字の裏側あたりに、内緒で別の文字も刻んだのだ。「裕」。  2つの文字を抱きかかえて、つちぼとけは柔和な表情を見せている。 
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