家族は応援団。作る、食べるで心をつなぐ

2020年3月2日

「うちのはちょっと甘めなんですよ」と手際よく卵焼きを仕上げる桜林芙美さん。乳がんを患い、治療中に体が辛いときでも、子供のお弁当に入れる卵焼きだけは自分で作ると決めていました。

 左胸の全摘出後、肺への転移が見つかり再び治療へ。身体に負担をかけないよう、自分のペースで進み続けている芙美さん。食べたいものを食べ、しんどいときは家族に頼り、やりたいことをやる。その気負いのない生き方と輝く笑顔の内側を見つめていきます。

桜林芙美(さくらばやしふみ)さん

 1980年生まれ。神奈川県出身。9歳の双子、7歳の3女、ご両親との実家暮らし。2015年、35歳のときに乳がん(HER2陽性)と診断され、2016年に術前抗がん剤治療後、左胸の全摘出と周辺にあるリンパ節の切除を行う。術後、抗がん剤、分子標的薬、放射線の治療を続ける。2017年11月に肺への転移が確認され、ステージ4と診断。抗がん剤治療、分子標的薬2剤の治療を開始し、2ヶ月後に抗がん剤を終了。現在は3週間に1度の分子標的薬2剤の点滴治療を継続している。乳がん体験者コーディネーターとして地域の患者サポートなども行なっている。

乳がんとわかってほっとした

「ママね、今度おっぱいを取り替えてくるの。すっごいピカピカのがくるから待っててね」

 芙美さんは、3人の娘たちとお風呂に入りながら、そんな風に楽しく、明るく自分の病気のことを伝えたと言います。まだ幼いといえども、子供達には隠しきれないと思ったのです。

 「そうしたら『イエーイ♪ ママいってらっしゃい』と元気いっぱいで手術に送りだしてくれました。抗がん剤治療で髪の毛が抜けたときも『ゲゲゲの鬼太郎は髪の毛で悪い人を攻撃するから、ママも髪の毛が抜けることでがんと闘ってるんだよ』と説明したりして(笑)」

 乳がんが分かったのは35歳のときでした。その半年以上前から倦怠感が続き、喉を痛めることが多く、耳鼻科や甲状腺の病気を疑い専門の病院に行きましたが、原因は分からないまま。育児疲れかなと思いながらやり過ごしていましたが、左胸の乳首がかぶれるようになったことで、いっそう不安を覚えます。

「分泌液のようなものが出て、しばらくするとかさぶたになる。それを繰り返していました。とくに痛みや痒みはなく、当時、運動を始めていたので、動いたときに下着に擦れたのかなと思いましたが、調べていくうちに乳がんかもしれないと思い始めました」

 乳腺外科クリニックを予約し、受診までの3週間くらいの間に、ビー玉くらいのしこりがポコっとできて、やはり乳がんなのかもしれないという不安が強くなります。

「手術する病院が、好きな街の鎌倉にあるのがうれしかったんです」と入院生活を楽しんでいた芙美さん。

「クリニックの先生から病名を告げられたときは、正直ほっとしたんです。これでようやく不調の原因がわかったって。私は乳がんの中でも、他と比べて少し進行が早い、HER2タイプだったので、次の細胞診をすぐに受けてくださいと言われたのに、病気のことより、仕事を休みたくないなと思うほうが先でした。それくらい、のんきに構えていました」

 このとき芙美さんは、新たなスタートをきったばかりの時期。お子さんの保育園が決まり、カフェの調理の仕事に就き、やる気に満ちていた矢先の病でした。

「店長は、できる範囲で来てもらえればいいと言ってくれたんですが、抗がん剤で抜けた髪が料理に入ったら大変ということもあったので、やむなく辞めて治療に専念しました」

肺に転移したときは「無」の気持ちに

 細胞診の後、術前抗がん剤治療を行いましたが、しこりが大きくなり、すぐに手術に切り替えました。左胸の全摘出に対して落ち込むことがなかったのは、乳房再建ができると思っていたからだと言います。

「結果的に再建はできなかったんですけどね。手術後は動いて下さいと言われていたので、習い始めていたタヒチアンダンスの動きをしたりして、すごく元気でした。同じ病室のメンバーたちとも気が合い、本当に楽しくて。今でも連絡を取り合っています」

 抗がん剤、放射線治療を行ったあと、がん細胞をピンポイントで狙う分子標的薬のハーセプチンを3週間に1回のペースで点滴していきました。

 2017年11月、約11ケ月の分子標的薬の治療を終えた3ケ月検診のときに、肺への転移が見つかります。「聞いたときは『無』の境地でした。怒りとか悲しみとかではなくて、感情がない状態。20回もの点滴をやったのになあって。でも、転移してもがんばっている方たちを知っていたので、自分も同じようにすればいいんだと思っていました」

 肺への転移では、抗がん剤と分子標的薬2剤の治療をすることに。それまでのハーセプチンに加え、パージェタ(一般名ペルツズマブ)の投与も始まりました。「私の場合、このパージェタがすぐにお腹にきちゃうんです。点滴した直後から下痢がひどくて、下痢止めを飲むと今度は嘔吐がひどくなって……。食べ物によっても、下痢になったり、ならなかったりして、いろいろと試した結果、ヨーグルト以外の乳製品や生野菜を食べるとくだすので、避けるようにしました」

母の裕子さんは芙美さんの大変さを一番よく知っている存在。3人の孫たちの遊びにも楽しそうに付き合ってくれています。

 それよりも、母のほうが……、と芙美さんは続けます。 「母がとにかく泣くんですよ(笑)。乳がんがわかったときもそうですが、肺に転移したときは大泣きして」

 「だって、本当なら私がかかっていい年齢なのに、なんで娘がと思いました。でも、この子はいつでも明るくて、しっかりしてる。心の中では泣いているんでしょうけどね」と母の裕子さんは、涙ぐんで話します。 2ケ月の治療の末、病巣が小さくなり、肺転移は落ち着きました。

食べやすかったのは、食感のいいもの

 抗がん剤や分子標的薬で治療しているときは、おいしいと感じるものに変化があったという芙美さん。肺への転移後は特に偏りがありました。

「大変でしたが、何がおいしく食べられるのかを見つけるのが楽しみでもありました。好きだったのが、コンビニのシャキシャキレタスサンド。中に入っているハムが食べられなかったので、ハムを取り除きレタスとチーズだけにしていました。レタスのシャキシャキ感と、パンのしっとり感がいいんです。煮物など母が栄養バランスのいい料理を作ってくれても、このサンドウィッチしか食べられないときがありました」

 他に無塩のミックスナッツ、フルーツグラノーラ入りのヨーグルト、病院帰りのカフェでよく食べていたキヌア入りのご飯など、食感があるものがおいしく感じたと言います。

腕がしびれて箸が使いづらいときは、スプーンで食事をしているそう。「浅くて口にしやすいスプーンを探して使っています」

「最初の頃は乳がんにいい食材などを調べていましたが、うちは昔から、玄米や雑穀、おばあちゃんが作っていた無農薬野菜など、食材にこだわっていたんですよね。加えて、私は肉を食べずに野菜だけのベジタリアン生活を送っていた時期もありました。なのに、がんになった。だったら、食べたいものを自由に食べようと」

 味覚にも異変が起きており、大好きなコーヒーがおいしくなかったり、チョコレートで甘みを感じるのはホワイトチョコだけだったり。食べられるものを探しながら日々を過ごしていました。

家族みんなが大好きな「そぼろ丼」

「ちょっと味見してみて」と芙美さんは、炒めている最中のひき肉をひと匙とって、長女のここちゃんに食べてもらいます。「うん、大丈夫。おいしいよ」という答えに微笑み、仕上げていきます。今でも味覚が完全には戻っていないので、家族に味見してもらうのが日課に。

 この日のお昼はひき肉とたまごのそぼろ丼。治療中は腕のしびれや関節痛、悪寒などがあり、だるくて動けないこともありましたが、できる範囲で台所に立っていた芙美さん。そぼろ丼は、そんな時でも手軽にさっと作れるメニューです。 「ちょっと甘めの卵と、甘じょっぱいひき肉をそれぞれ炒めるだけ。私も作りやすくて食べやすいし、家族みんなが大好きなごはんなんです」

「私がやるー」とお手伝いを取り合う双子のれなちゃん(左)とここちゃん。慣れた手つきで卵を割り、手際よく混ぜていきます。
れなちゃんが洗い物をしている間に、ここちゃんがにんじんをのせ、そぼろ丼が完成。

 3人の娘さんの手がかかる時期に病になったため、料理をはじめとする家事全般をお母さんに頼らざるを得ませんでした。母の裕子さんはフラダンスの講師としてクラスで教える傍ら、芙美さんを支えていました。娘さんたちのお弁当作りでも、裕子さんがおかずを担当していたといいます。

「キャラ弁がはやっていた時期だったので、母がおかずを作って、私がかわいいピックや仕切りを使って詰めていました。そうそう、卵焼きだけは母が苦手だったので、私が焼いていましたね」という話に、3女のめいちゃんが「そう、いつも卵焼き入れてくれてた!」と元気に教えてくれます。お弁当箱をあけたときにぱっと目に飛び込む卵焼きは、ママの笑顔のような安らぎの味だったのでしょう。

ふっくらきれいに焼けた卵焼き。半分にカットし、置き方を工夫してハート型に。「凝ったことはできないけれど、ちょっとでも見た目が楽しくなるように」と芙美さん。

娘たちが自分でごはんを炊けるように

 それにしても3人の娘さんたちは、お皿を運んだり、お茶を入れたり、料理をする芙美さんの横で洗い物をしたりと、お手伝いが上手です。

「肺への転移が判明したときに、自分は娘たちとどこまで一緒にいられるかわからないと思ったんです。彼女たちが自立して生きていくために、何が必要かと考えたとき、『ごはんを炊くこと』だと。炊飯器ではあるけれど、お米をといで水量を計ってスイッチを入れる。先輩ママさんからの『子供はお米が炊けるようになれば、何かしらかけて食べるから』という助言を実践しました。食べること、寝ることといった、生活にまつわることを身につけるのが大切な気がしています」

次女のれなちゃんに道具の使い方を教えながら、そぼろ丼用のひき肉を炒めていきます。「火を使う料理は一緒にやりますが、野菜を切ったりするのはひとりでできるんですよ」

 寝込んでいるときは、さりげなくお菓子やお茶を持ってきてくれるやさしい娘さんたちに、芙美さんは助けられていました。

「前は子育ても家のことも自分でやらなくちゃと思っていましたが、今は頼れるところは頼っているので、精神的に楽になりましたね」

「はーいできた」とめいちゃんが作ってくれたかわいいおにぎり。

がんになって目覚めた力

「芙美は病気になってからのほうがエネルギッシュになったと思いますよ」と裕子さんは言います。

「以前は目立たない存在で、人前に出るのが苦手でした。私のフラダンス教室の手伝いをすることがあるんですが、今は堂々といい表情をしながら踊るんです。本来持っていた表現力が花開いたような感じがします」

 芙美さん自身も「がん患者のサポートなどを通じて、人と出会うことで刺激をもらったり、共感しあえることがうれしい」と充実した日々を実感していました。乳がん体験者のコーディネーターの資格をとり、地元の神奈川県・海老名エリアのがん患者さん向けの集まりなども企画しています。

「抗がん剤の副作用やリンパ浮腫(手足などがむくんだ状態)の悩みなどの相談をよく受けます。同じ立場で気軽な話をするだけで、リラックスできる。私もときどき、病気のことから逃れたいと強く思うことがありますが、不安や悩みを吐き出したほうが精神的にはすっきりするんです」

 弱音を吐き出せる芯の強さ、さまざまな人との出会いや喜び、家族への愛情。がんを受け入れ、辛い経験を力に変えて前に進む姿は、輝きがあふれ出ているようでした。

元気いっぱい、笑顔が絶えない桜林さんファミリー。裕子さん(中央)の教室で、芙美さんとお子さんたちが一緒にフラダンスを踊ることもあるそう。
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エピソードをひとさじ

卵焼きのお手伝いをしていた双子のれなちゃんとここちゃん。「卵5個割ったから、お砂糖も5杯だよね」「ちゃんと数えて入れよう」と、手際よく二人で相談しながら進めていました。その横では、妹のめいちゃんが黙々と海苔を型抜きしておにぎりに仕上げていきます。甘い卵焼きの味、おにぎり一つでも楽しむコツ。3人の娘さんたちがしっかりと受け継いでいることが伝わってくる時間でした。(編集部)

わたしの逸品

二色そぼろ丼

調理時間
30分以内
主な材料
ご飯、卵、豚ひき肉
栄養価(1人分)
食塩相当量1.1g
エネルギー653kcal
たんぱく質26.7g
投稿者のコメント
乳がんの治療中、腕のしびれや関節痛があるときでも、木べらを使って手軽に作ることのできるメニューでした。菜箸を使うよりも大......

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