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第43回 がんから得た“とくべつ”な時間〜木口マリの「がんのココロ」~

掲載日:2020年5月29日 15時00分

 毎年、この時期になると思い出すことがあります。  それは、自分の「告知記念日」! そして、それが母の日の寸前だったこと。  

「がんになる」というのは、一種独特な経験です。  命には限りがあるんだということを、突然、ものすごくリアルに感じました。  

 そして、今、この時間はなんとなく過ぎるものではなく、その価値は、とてつもなく大きいと知ったのです。  

父との時間

父とよく話をした、病院の屋上庭園。懐かしい思い出です。しかし冒頭に母の日のことを書きましたが、なぜかこの年の父の日のことは覚えていない(笑)

「親孝行、したいときには親はなし」ということわざがありますが、実際に何が親孝行かというと、一つには、「一緒に時間を過ごすこと」ではないかと思います。  

 私の場合、えらく心配をかけたうえに、治療中は一人で身の回りのことができない状態になることも多々あり、とても親孝行どころではない事態になってしまいました。  

 ただ、そんななかでもできたことがあります。  それは、かなり長い時間を一緒に過ごせたこと。そして、たくさんの「会話」ができたことでした。  

 入院中、父と母は、毎日のように交代でお見舞いに来てくれました。  

 実は、それまで私は父がどんな人物なのかを知りませんでした。  定年前の父は、昭和の典型的サラリーマン。長年、都心の企業に務めるいわゆる仕事人間で、早朝に出勤し、帰宅は深夜。  当然、子供のころの私とはすれ違いで、まともに話をするタイミングなどなし。いくらか余裕が出てきたころには、娘は成長し、親への興味をなくしているという、これまたありがちな悲しい父の道。  

 ところが、入院して身動きが取れないうえにヒマだけはたんまりあるのをいい機会に、初めてじっくり話をすることができたのです。何しろ、一緒にいれば話すか黙るか、たいして行く場所のない院内を連れ立ってウロウロするくらいしか、選択肢がないのです。  

 話してみたら、父の話は意外にも奥深く、面白い。真面目なカッチリ人間だと思っていたのが、「まあいいか〜、っていうのも大切なんだ」と言ってみたり、「こんなことを考えている人だったのか!」と思うことも多々。この年(30代後半)になって、初めて父の「人」を知ることができたのでした。  それぞれの言葉は、これまで父が生きてきたなかで学んできたものなのだろうと感じました。「この人にも、長い人生があったのだなあ」と、当たり前のことにしみじみしたりして。  

母との時間

告知からの足で買った、母の日のお花。できるだけ長持ちするように根のついたお花を選びました。(撮影:キグチ母)

 「来年の母の日は、祝えないかもしれない」 告知後にふと、そんなことを思いました。といっても私は、がんになったこと自体をいたって冷静に受け止めていたので、サラッと「そんな可能性もあると思っておこう」というくらいでしたが。  

 母は、抗がん剤の副作用が出ている間などに、毎回、私の家に泊まり込みで来てくれていたので、さらに一緒の時間を過ごすことになりました。体調が思わしくないときは一人でトイレに行くこともできない私に、まさにつきっきり。朝も昼も夜も、そばにいてくれました。  

 母とはもともとよくお出かけしていたものの、健康だったときのように話をするのでもなく、ほとんどの時間はただ一緒にいるだけです。さほど広くない自宅のベッドで休んでいる間、母がソファで書き物をしたり、本を読んだりしているのがときどき見えていました。それだけでも、とても安心感があったことを覚えています。  

 もしも、このときの私の状況で、母がすでにこの世にいなかったら、どんなに怖い思いをしていたかと思います。特に具合が悪いときなど、母の存在がないことを想像しただけでも不安は計り知れませんでした。  普段、いるのが当たり前のような気がしていましたが、気持ちのうえでの支えは相当に大きいものだったのだと感じました。  

 私の体調が戻ると、母は「具合が悪かったら、またいつでも呼んでね」と言い残し、実家に帰って行きました。ちょっと寂しそうに、カートをカラカラと引きずって。  

 姿が見えなくなるまで見送ったあとは、毎回、何となく部屋に空虚感が漂っていました。また以前と同じように、一人に戻っただけなのに。  それも2日もすれば元どおり、まったく平気になってしまうのですが、ずっとそこにいた人がいなくなることの寂しさは、心に留めておこうと思いました。  

 その昔、母が急病で入院しました。そのとき初めて、「親はいつまでも生きてはいないんだ」と実感したものです。それ以来、親のことを気にかけてはいました。しかし、ここまで一緒に過ごすなんて、大人になってしまったらなかなかできないことです。  

 ずっと健康であれば、仕事ばかりして、時間があれば会うのは友達で、親と会うのは「また今度、そのうちね」と言っていたと思います。知らず知らずに1年、2年と時間が流れてしまい、気付けばあまり話もできないまま見送るか、私自身が去ることになっていたかもしれません。  

 そう考えると、父も母も元気でいるこのときに病気になったのは、私にとくべつな時間を与えてくれるための計らいだったのではないかという気さえしてきます。  

“とくべつな時間”は、きっとみんなにある

家で動けないときに母が拾ってきてくれた落ち葉(消毒済み)。

 親って、さすがだなと、つくづく思います。  私たちが自分の記憶すらないような赤ちゃんのころからずっと見ていて、大切に思ってくれていて。その想いの深さは、それ以上のものがないと思います。そんなことを、改めて感じました。  

 がんになって以降、私には一つの目標ができました。それは、「親より先に死なない」こと。  でも、がんであろうとなかろうと、先に死んでしまう可能性はいつだってあります。  それは今日かもしれないし、明日かもしれません。健康に気を遣うことはできても、その可能性に対してできることは何もありません。  

 それならば、今を自分の思う限り大切に生きて、それを両親や身近な人たちにも感じ取れる形としていくべきだろうと思いました。  とはいえ、私は親に「ありがとう」と言うのも照れくさいくらいで、言葉で伝えるのはなかなか難しい。花を一輪あげるでも、笑顔を見せるでも、そのときにできることで少しでも表現していければと思います。  

 

たびたび笑顔の写真を送るのも気持ちを伝える一つかなと思います。


 がんから得る“とくべつな時間”には、いろいろなものがあると思います。気にかけてくれる友達との時間や、気持ちよく朝日を浴びることがとくべつな時間になった人もいるでしょう。私の場合は両親との時間がその一つでしたが、きっと誰もが、何かを得ているはずです。もしくは、これからやってくるのかもしれません。  

 なかなか見つけられないこともありますが、「がん」という経験のなかにも、一生に一つのかけがえのない時間があるかもしれないことを、心のどこかに持っていてもらえたらと思います。  


木口マリ
「がんフォト*がんストーリー」代表 執筆、編集、翻訳も手がけるフォトグラファー。2013年に子宮頸がんが発覚。一時は人工肛門に。現在は、医療系を中心とした取材のほか、ウェブ写真展「がんフォト*がんストーリー」を運営。ブログ「ハッピーな療養生活のススメ」を公開中。
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