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自分らしくなくてもいい、しぶとく生きていく
~がんになった緩和ケア医、大橋洋平さんのリアル~ 前編

掲載日:2020年10月22日 15時13分

 三重県の緩和ケア医、大橋洋平さんは2018年6月、消化管間質腫瘍(ジスト)になった。患者の気持ちがわかる医者だと思っていたが、それが幻想だったと知った。100キロ以上あった体重は40キロも減り、肝臓にも転移。  そんな中、『緩和ケア医が、がんになって』『がんを生きる緩和ケア医が答える命の質問58』(いずれも双葉社)の著書を出版した。「自分らしくなくてもいい、しぶとく生きる」。大橋さんのメッセージは、がんと向き合う人の心を軽くしてくれる。 (文・日本対がん協会 中村智志)
大橋洋平さん。Zoomでインタビューした(2020年7月)

 目の前に熊野灘が広がっていた。右の端から左の端まで、ほぼ180度。強すぎない陽射しに照らされて、波も穏やかに、深い青がたゆたっている。

 2020年6月のある日曜日、大橋洋平さんは、妻のあかねさんと、三重県内の紀伊半島の南端近くまでドライブに来ていた。消化管間質腫瘍(ジスト)になって2年。好不調を抱えながらも日常を保ち、週に4回、午前中だけ緩和ケア医の仕事も続けている。

 丸っこい石が全面に敷き詰められた海辺に座った。なんて広いんやろう、ええなあ……。海を眺めているうちに、気づくと叫んでいた。

「がんなんか、どうでもええよ。こんなおっきい海見てたら、自分なんか、悩んでることなんか、ちっぽけに見えてきた。どうでもええ。転移もええ、仕事もええ。もう死んだら、海に散骨してくれ!」 

 スマートフォンで海の写真を撮っていた妻のあかねさんが、最初は驚いたものの、やがて頷いていた。「この人と2人で、このまま1日いたいわ」と思いながら。

ゆったりとたゆたう熊野灘(太平洋)。三重県御浜町で(2020年6月)=大橋さん提供。

 午前3時の黒色便

 2018年6月4日の午前3時であった。  大橋さんは突然目覚めてトイレに駆け込んだ。大量の下痢。しかも、黒くて、鉄さびと便が混じったようなにおいがする。緩和ケア医になる前は消化器内科が専門だった大橋さんにはすぐにわかった。黒色便あるいはタール便。夕食は好物のざるそばで、たしかに海苔が少し載っていたが……そのせいであるはずがなかった。

 しばらくふとんで横になる。1時間もしないうちにトイレへ。前より大量の黒色便が便器を埋めた。

 胃からの出血に違いない。みぞおちに痛みもないし、潰瘍よりも胃がんの可能性が高いだろう。朝になるのを待って、自宅から5キロにある愛知県弥富市のJA愛知厚生連海南病院で診察を受けた。自らの勤務先でもある。ジストだろうと告げられ、そのまま入院した。

大橋さんと、あかねさん。三重県菰野町(こものちょう)にある蒼滝(あおたき)の前で自撮りした(2020年6月)=大橋さん提供。

 

 翌日のCT検査の結果、胃の入口あたりに10センチほどの腫瘍ができていた。やはり、ジストである。10万人に1人といわれる希少がん。腫瘍が5センチまでなら完治が見込まれ、10センチを超えると手術をしても、転移や再発のリスクが高まる。医師の説明を聞く大橋さんの横で、あかねさんの目がうっすらと光っていた。

 治療方針は手術、と決まった。大橋さんは、セカンドオピニオンは取らず、信頼している同僚の医師に身を預けることにした。

 オムツをして、食事は水分のみ許可されて栄養剤に頼る。少量とはいえ下血が止まらず、貧血が強まって輸血を受けた。髪の毛を短く切った。全身麻酔で、ぐらぐらする歯も抜いた。そうして、発見から11日後、6月15日の手術日を迎えた。  午前8時半、車いすに乗って病室を出た。一人息子の大学生、広将(ひろまさ)さんにはグータッチを、あかねさんにはそっとキスをして。


 まっすぐに眠ることがどんなに素晴らしいか

 手術は約4時間。胃をほとんど切除して、成功に終わった。だがそれは、苦闘の日々の幕開けでもあった。

 翌日、39.5度の高熱が出た。その後も38度台が続いた。手術の傷痕は30センチもあり、くしゃみをするだけでも激痛が走った。  術後1週間ぐらいからは少しずつ食事を取り始めた。ヤクルトも飲めた。

 6月27日に退院。その足で書店に寄り、胃の手術後の食事に関する本を2冊、買った。術後2週間、1カ月などと時間軸に合わせたレシピがカラー写真付きで紹介されている。

 あかねさんが、本を参考に作ってくれる。うれしいのだが、体が付いていかない。なぜか入院中よりも後退して、何かを食べると、消化液がみぞおちから喉の奥へと逆流してきた。ヤクルトも飲めなくなった。食欲も湧かない。

 食後は最低2時間、何か飲んだ後も1時間は座っていないとダメだった。横になると、胸やけや“喉やけ”が来る。夜も、ふとんを丸めて背中にあてて、体を45度に起こしたまま眠った。それでも体がずれると、消化液の逆流で目が覚めた。大橋さんは振り返る。

2019年8月刊に出版した『緩和ケア医が、がんになって』(双葉社、1300円+税)。

 

「発病前には夢にも思っていませんでした。人間、まっすぐに眠ることがどんなに素晴らしいことなのか、気づかされました」 

 病理検査の結果、腫瘍の悪性度を示す腫瘍細胞分裂像数は181だった。ジストはステージではなく、超低リスク、低リスク、中間リスク(中リスク)、高リスク、の4つに分類する。指標の一つが腫瘍細胞分裂像数で、高リスクのボーダーラインは5。

 大橋さんは、181という数字に目を疑った。宝くじは空振りばかり、大好きな競馬もそうは当たらないのに、55歳にして大当たりがこれとは……。

《あとどのくらい生きられるか。/3年以内か、それとも1年以内か。いや、年内か》  著書『緩和ケア医が、がんになって』にはそんな思いが記されている。


 食べられなくても半年生きてきた

 術後の再発防止のため、7月11日から抗がん剤のグリベック(一般名イマチニブ)を飲みはじめた。一部の白血病などに効果を発揮している錠剤で、比較的少ないとはいえ、吐き気、下痢、食欲不振、白血球減少などの副作用もある。

 体調はよくならない。しゃっくりが止まらない。少しでも何かを口に入れると、お腹が張る。下痢、消化液の逆流による胸やけや“喉やけ”……。子ども用スプーンにひとさじ程度の“食事”を1日6回、小分けに取る。食欲はないままで、飲み物もすべてまずかった。

 大橋さんは、とにかく食べることが好きだった。  2人前も珍しくない。家族3人で焼き肉食べ放題に行くと、60皿以上、平らげた。学生時代は70キロぐらいだった体重が、発病前には100キロを超えていた。

 体重はどんどん減ってきた。食べられないことのストレスは人一倍強かった。  緩和ケア医として2000人以上の患者さんと接してきた大橋さんは、経験的に「食べられなくなると、余命は1カ月ほど」と感じていた。

 混迷の森は深い。「一体、どうすればええんや?」。焦りが募り、いつの間にか、気遣ってくれるあかねさんとの間で、言い争いが絶えなくなった。

 ようやく転機が訪れたのは、手術から約半年後の12月、体重が40キロ以上落ちたころだ。何かがあったわけではない。まるで啓示のように、ふと思った。

「食べられなくても半年生きてきたし、無理せんでも、食べたいときに食べられる分だけ食べたら、ええんや」

 すると気が楽になり、不思議なことに、少しずつ食べられるようになってきた。年が明けて2019年の1月、2月、3月……。4分の1人前ぐらいに戻ってきた。

 消化液の逆流に対しても、退院直後のあかねさんの助言、「口から何か飲んで、上から下へ流し込んだったらええやん」を実行してみた。単純すぎる理論のようだが、いろいろ試したところ、スポーツ飲料のアクエリアスに症状を和らげる効果があった。  こうして、徐々に日常生活を取り戻していった。


 地図が大好きだった少年時代

 大橋さんは、1963年9月12日、三重県桑名市で生まれた。小学校4年の夏休み中に父の故郷である三重県木曽岬(きそさき)町に引っ越した。今も実家と同じ敷地に建てた家で暮らしている。

 木曽岬町は、木曽川の河口、いわゆる輪中地帯に広がる町だ。愛知県と接していて、名古屋の近郊に位置する。1959(昭和34)年の伊勢湾台風では、全域が水没し、人口の1割が亡くなったという。トマトや海苔が名産である。

 父は中学教師、母は主婦。大橋さんは、個性的な子どもだった。  保育園のころは、みんなが昼寝をする時間に、「なんで眠たないのに寝なあかんの?」と1人だけ寝ない。協調性がない、と指摘された。

 小学校時代、成績はよかった。しかし、先生が問題を出して、「わかるヤツおるか?」と聞かれても、絶対に手を上げない。通信簿では、「積極性」「協調性」「素直さ」に「×」がついた。漢字と地図が好きで、日本地図を開いては、難しい地名に見入っていた。

 名古屋市の東海中学・高校へ進学。東大や名古屋大などに多数の合格者を出す有名校だ。1学年450人ほど。野球部に入ったが、球拾いばかりで、夏には陸上部へ。主に中距離を走り、自分なりにタイムが速くなっていくことが面白かったという。

 勉強のほうは、予習中心のスタイルが功を奏し、高校に入ったころは学年で10番以内だった。だが、先生に太鼓判を押されたことで慢心し成績は下降線をたどり、高3になると、順位は3ケタに落ちた。

 結局、模試で合否ボーダーラインだった三重大学医学部に入学した。6年生の夏から秋にかけて、進路を選ぶ。外科は、実習中に見学した大きな手術で激務を目の当たりにし、自分には向かないと判断して、消化器系の内科に決めた。

 がん患者との接点も多い。医者になって10年ぐらい経ったころには、人間の「最期」について考える機会も増えてきた。がんの告知を十分にはしなかった時代。がんと知らずに有意義に生きることはできるのだろうか。そんな思いも抱いた。  そのころ、ホスピスを知った。


 聴いてもらうことで、生きる意欲も湧く

 2003年4月から1年間、日本のホスピスのパイオニア的存在である、大阪市の淀川キリスト教病院で研修を受ける。その最中の9月に、大橋さんの父が悪性リンパ腫のため、海南病院で治療を受けていた。ちょうど海南病院が緩和ケア病棟を新設した時期でもあり、大橋さんは、2004年、海南病院の緩和ケア医に転身した。

 2008年から、勤務の傍ら、京都市のNPO法人「対人援助・スピリチュアルケア研究会」で代表の村田久行先生に学びはじめた。特に重要なのは、苦しみに焦点を当てる傾聴のあり方である。

 苦しみは、客観的な状況と、主観的な想いや願い、価値観とのズレから生じる。そんな中で、人は誰かに語り、聴いてもらうことで、気持ちが落ち着き、考えが整理される。答えは患者さん自身の中にあり、傾聴に助けられながら本人がたどり着く。そのとき、生きる意欲も湧く。そんなことを教えられた。

 2016年の夏には、非常勤医師となった。50歳を超えて、体力的にしんどくなってきたのだという。勤務は週に2回。海南病院では、緩和ケア病棟への入院を希望する患者・家族の面談を行っている。出勤日には1日2組の面談を行った。

長男の広将さんと。撮影はあかねさん(2020年9月)=大橋さん提供。

 

「収入は減りましたが、私は気にしませんでした。嫁さんと過ごしたり、近場に出かけたり。今思えば、いい時間になっていた。気楽な生活を満喫してました」  そろそろ今後のことを考えてみようと思ったころに、がんが判明した。

 そして、食事が取れずに苦しかった2018年の夏、週に1回、1組の面談から仕事を再開した。2019年に入ると、週に4回、1日1組をこなせるようになっていた。

「ジストは、じっとしていても治るものではありません。1日1組でも、患者さんやご家族にお目にかかって、思いを受け止めて、緩和ケア医として示すべきことを示す。今の自分にやれることの一つで、生きがいです」


 愛車のスポーツカーを手放す

 一方で、大橋さんは、いわゆる断捨離も進めていった。  退院してほどなく、「拘束され感がある。これこそいらんよな、死んでいく人に」と思ってガラケーの携帯電話を解約した。

 次に、愛車の黒のスバルWRX ST1を手放した。スポーツカーのような車だ。大橋さんにとって、ドライブは、食べること、競馬と並ぶ趣味である。「走り屋だったかもしれない」と言い、この車にも20万キロぐらい乗っていた。だが、家には家族の車もある。治療費もかかる中で、惜しみながらも決断した。ほかにも、さまざま捨てた。

「自分の意思でいろいろなものを手放したら、すごく身軽になった感じがしたんです。やる気も出てくる。でも、体重が40キロ減ったほうは、受動的に奪われた40キロなので、全然身軽にならないんです」 

 もう一つ、転機があった。  2018年12月29日、朝日新聞の投書欄「声」に、大橋さんの投稿が、「緩和ケア医が『がん』になった」というタイトルで、載ったのだ。それがきっかけとなり、朝日新聞記者の取材を申し込まれた。その際、自ら希望して、東京・築地の本社まで取材を受けにいった。新聞社を見てみたい、あかねさんを東京に連れて行きたい、という理由からである。

 記事は2019年3月11日、「『患者風』吹かせ、自由に生きていい」というタイトルで載り、さらに数日後には、記事を読んだ双葉社の編集者から、大橋さんの本を出版したいという申し出を受けた。

 同じ3月には、あかねさんと大阪まで近鉄で出かけてきた。観光というよりは、電車に乗って移動することがメインの“小旅行”だが、心地よかった。

 食事、仕事、断捨離、そして本の出版が決まる。2018年12月のCT検査の結果も上々だった。このころ、あかねさんはよく口にした。

「こんなに幸せすぎて怖いくらい。何かまた悪いことが起きるんちゃうかな」  その言葉通り、2019年4月、転移が見つかった。


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