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[がんと生きる] QOL(生活の質)を見据え、肺がん手術をやめて放射線治療へ
~浅沼和雄さんの選択~

掲載日:2021年4月29日 9時30分

 がん治療では、節目ごとに選択を迫られる。東京都の浅沼和雄さん(85)は、2019年に大腸がんになったときには手術を選び、同時期にわかった肺がんに対しては、手術を勧められたが、転院し放射線治療を選んだ。人生の集大成の季節、QOL(生活の質)を見据えての決断であった。そして2021年に入り、今度は膀胱がんの疑いが出て――。 (文・朝日新聞社 中村智志)
浅沼和雄さん。2021年4月、渋谷駅前で(写真=中村智志)。

 多くの有名人との“交流”を糧に 

 小柄でエネルギッシュ。80代半ばとは思えないしっかりした足取りで、歩くスピードも速い。口調ははっきりしていて、歯切れよく語る。 「私の人生は黒子でしたよ。外資系企業で、10人の社長に陰から仕えました」

 浅沼和雄さんはそう謙遜するが、仕事を通じて出会った著名人は――岸洋子(シャンソン歌手)、團伊玖磨(作曲家)、安達瞳子(華道家、NHK「連想ゲーム」などに出演)、町春草(書道家)、寺内大吉(作家・僧侶)、小山五郎(三井銀行会長)、井植歳男(三洋電機社長)、小西得郎や金田正一、工藤公康、伊東勤らプロ野球関係者……そうそうたる名前が続く。

 浅沼さんは、米国の空調機器メーカー、キャリアの日本法人「東洋キヤリア工業(現東芝キヤリア)」一筋だった。日本で初めてエアコンを製造し、皇居にも納めた会社である。

 著名人と知り合ったのは、1970年代ごろ、販売促進の仕事をしていたときだ。  岸洋子さんに、大阪で開いたイベントに出演してもらった。岸さんは、自費で大阪のキャバレーを借りてステージで練習してから臨んだ。練習の様子を見ると、真剣そのもので、人知れず歌を磨く姿や信念を強烈に教えられた。 「プロ意識なんでしょうね。すごさを学びました」

 作曲家の團伊玖磨さんは浅沼さんの上司とつながりがあり、浅沼さんも八丈島の別荘に招かれたほど。周年記念として社歌の作曲を依頼した。作詞は、浅沼さんの知人(アマチュア)が手がけた。團さんは詞に目を通すとこう言った。

「これじゃあ、作曲できません。ただ、全部書き直すと、その方に一生の心の傷を与えてしまいます。それはいけないので、私に手を加えさせてください」 

 そして、半分ほど書き直した。生まれ変わった詞を読んだ浅沼さんは、あまりの違いに目を見張った。團さんは静かに、「もし表に出す場合は、作詞・○○(知人の名前)、補作・團伊玖磨、としてください」と付け加えた。

 寺内大吉さんからは、タクシーの中でこう諭された。 「人間の生涯はね、思う存分に、やりたいことをやり抜け。人の振りを見ていても、ろくなことにならないよ。大事なのは、自分の生き方だ」

東洋キヤリア時代の浅沼さん(写真中央)。1965年ごろ。業界の展示会委員長として活躍した。浅沼さんの右の背が高い人が井植歳男さん(=浅沼さん提供)。

「人生二毛作で生きよう」 

 浅沼さんは、昭和10(1935)年10月に長野県佐久市で生まれた。  戦時中、米軍機が上空を飛ぶと、珍しいので、「飛行機が来たぞ」と面白がって手を振った。機銃掃射を受けたが、野菜畑に逃げ込んで難を逃れた。

 実家は兼業農家で、浅沼さんは、姉が3人、兄が4人いる8人きょうだいの末っ子だった。明治生まれの父は地元の蚕糸会社の副社長も務めていた。敷地には、母屋のほかに2つも建物(長男夫婦の家と蔵)があった。

 父は、大学野球の早慶戦で第1号の勝利投手となった同郷の桜井弥一郎と親しく、浅沼さんも可愛がられた。後に、桜井の紹介で小西得郎と出会い、そこからプロ野球関係者たちと知り合えたという。

 父は篤志家の一面もあり、疎開していた画家の有島生馬(兄は作家の有島武郎、弟は作家の里見弴)や東郷青児らを支援し、親しくしていた。戦後の農地改革で、田畑がすべて人手に渡り、自分の家が苦しいのに、浅沼さんが通う小学校に紙や文房具を密かに寄付し続けた。

 浅沼さんは、そんな父から、「若いときは迷惑かけてもいい。大きくなったら人に尽くせ」と諭されて育った。

 高校までは皆勤賞。書画が得意で、創作力を懸命に磨いた。中学時代、父が有島生馬に弟子入りさせようとしたが、「高等教育を終えてから来なさい」と断られたという。

 県立小諸商業高校から日本大学経済学部(二部)へ。仲間で絵の同好会を作り、学園祭で絵画展を開こうとしたが、教室使用の許可をめぐる行き違いで、厳しい処分を受けた。それをきっかけに退学。おじのツテで東洋キヤリアに入社した。

 それから約40年。社長が交代すると前社長の側近ゆえにいったん遠ざけられるが、会社のことを熟知しているため、呼び戻される。浮沈を繰り返す中で、有名人たちからの生きた教訓を思い出しては、自分を奮い立たせた。

浅沼さんの書画(自画像)。雅号は「万水」(=浅沼さん提供)。

 

 そのかたわら、社史を4回、業界団体の年史も2回編集した。プライベイトでは27歳で小諸生まれの妻と結婚し、一女一男に恵まれた。

 地道に会社を支え続け、65歳で退職。4年間ほどデザイン会社で働いてから、70歳で、取引先だった冷熱技術メーカー「(株)カンネツ」に転職した。

 同い年の社長の荒木稔さんから「人生二毛作の時代だ。もう一度社会のために働き、心の豊かさを磨こう」と口説かれたのだ。  本社は大阪市にあり、浅沼さんは東京でサポートした(現在は名誉顧問)。

 そんな日々を送るなかで、“異変”は、かゆみ、という形で現れた。


 小さな粒をきっかけに大腸がんが見つかる

 自覚し始めたのは、2019年の2月ごろから。  体に小さな粒がいくつも出てきて、かゆくて仕方がない。便秘気味でもあった。だが、毎年欠かさず受けている区の健康診断では、いつも「異常なし」。しばらく様子を見ることにした。

 2月に入っても変わらないので、とうとう近所の皮膚科を受診。「湿疹です。異常はありません」と塗り薬を処方された。しかし、いくら塗っても治らない。3月の区の健康診断でも「異常なし」だったが、さすがに気になった。

 4月、妻の紀子さんに写真を撮ってもらい、神奈川県に住む娘の山本智美さんに送った。智美さんはすぐにがんに詳しい知人に相談した。知人は写真を見て、「大腸がんの兆候かもしれない」と、県内のクリニックを紹介してくれた。

 平成から令和に変わった連休明けの5月半ば、そのクリニックで大腸の内視鏡検査を受けると、はっきりがんと告げられ、がんの専門病院を紹介された。

 6月に入り、がん専門病院で、ステージ2の大腸がん(直腸がん)と確定した。放射線を5回当ててがん細胞を小さくしてから、6月末に手術を受けて、人工肛門(ストーマ)を付けた。手術は成功し、抗がん剤治療などは行っていない。

 ただ、大腸がんのために受けたMRIやCT検査で、肺にも影が見つかった。左右の肺に1つずつ、がん細胞があったのだ。呼吸器外科の医師からは、 「(大腸がんの手術後の)体調が戻ったら、すぐに手術をしましょう」  と勧められた。右の肺は半分、左の肺は3分の1を切除するという。

 だが――。浅沼さんは医師の判断を尊重しつつ立ち止まり、考えた。


 生命に関わる決断は自分で 

 手術を受ければ体力も消耗する。肺を順次切除すると、後遺症が残るかもしれない。ちょっとした運動でも呼吸が苦しくならないか? 娘に相談すると、がんに詳しい知人を通じて放射線治療という道もあることを示された。

 結局、セカンドオピニオンを取ることにして、9月に入り、神奈川県藤沢市の湘南藤沢徳洲会病院を受診した。

 この病院は、高精度放射線治療という、従来の放射線治療より正確でピンポイントにがん細胞を照射できる治療を行っている。医師はこう言った。 「放射線治療でも十分に行けます。ただ、決めるのは浅沼さんです」

 生命に関わる決断は自分で行う。浅沼さんは、判断を下すことの重要性を痛感した。そして、QOLを考え放射線治療を選んだ。

 当面は、がん細胞が大きい左肺にのみ当てることに決まった。10月に4回、4日連続で受けた。1回15分。準備を含めても30分で終わった。

 その後、大腸がんのほうは、主治医が都内の総合病院に移ったのに伴い、浅沼さんも転院した。2020年8月、転院先の呼吸器外科の医師から、まだ放射線を当てていない右肺のがんの手術を勧められた。

「新型コロナウイルスで大変になる前に入院したほうがいいですよ」  だが浅沼さんは「肺のほうは放射線でいきますから」と答えて、その翌日に湘南藤沢徳洲会病院に予約を入れた。照射は1回だけで終わった。

 それからは経過観察を受けていて、ずっと順調だ。 「放射線治療は、火傷っぽくもならないし、副作用もない。治療した日から普通の生活を送れています。安直な自己判断や自己満足は良くないかもしれないが、いまは、放射線にしてよかったと思います。生きがいを持って暮らせています」

 生きがいの1つは、妻の紀子さんと楽しむ、都内のアンテナショップの食べ歩きだ。故郷の長野はもとより、四国、岡山、富山、函館、三重、島根、沖縄など各地方の郷土料理を味わった。

 趣味の書画は、夫婦で画廊やデパートのギャラリーを見て歩き、若い頃の情熱を蘇らせている。あるいは、近くに住む息子夫婦の小学生の娘、浅沼さんにとっては孫の面倒を見る。

「2020年6月には高血糖値になり、定期観察のため大学病院に通っています。その先生に、手術と放射線とどちらが長生きするのか聞いたら、『寿命はおんなじですよ。どんな気持ちで生きるかが大切です』と言われました」  紀子夫人、長男の隆之さん一家と。2018年秋、明治神宮で(=浅沼さん提供)。


 毎日感謝しながら、残された人生を笑顔で 

 コロナの感染が拡大する中で、外出や買い物は控えることが増えた。一方で、野菜中心に変えた食生活は充実している。

 娘の智美さんは、数年前、夫婦で長野県に無農薬農業を学びに行っていた。そこで出会った人が首都圏から移住し本格的に無農薬農業を始めた。2020年6月頃からは、智美さんがその人から無農薬野菜を買って、届けてくれる。

 トマト、なす、キュウリ、カボチャ、ゴーヤ、ズッキーニ、にんじん、ごぼう、大根、ネギ、ニンニク……ありとあらゆる季節の野菜のほか、無添加の自家製信州みそや漬物まで。

「無農薬の食材を使った妻の田舎料理をバランスよく食べています。娘からは糖質コントロール方法をリモートで教えられ、健康も管理されています」 

 毎朝5時に起きて近くの公園でラジオ体操をしたり、人混みはなるべく避けるが、仕事や趣味、たまにはアンテナショップのランチに出かけたりもする。

 2021年に入り、ほうじ茶のような色の血尿が出て、初期の膀胱がんが疑われた。今度は手術を選択。3月半ば、大腸がんの手術を受けたがん専門病院で、内視鏡手術を終えた。病理検査の結果、がんではなく、良性の腫瘍だったという。

 退院後も、夫婦で街歩きをしたり、孫を連れて出かけたり。結果的に、「あれ、こんなに歩いちゃった」となる。

「治療しながら、楽しく、平然と過ごす。それがQOLかなあ、と思う。人生に必要なのは、本当の意味でゆとり、充実感を持つこと。卑屈にならず、毎日感謝しながら、前向きな人生観を持っていこう、とつくづく感じています。そして、次世代の子どもたちに、庶民的、生活的な何かを残したい。人間は、芯棒をしっかり持っていることが大事だと思います。残された人生を笑顔で全うします」 

 浅沼さんは自然体で、悠然と構えている。

無農薬野菜をふんだんに使った紀子さんの手料理と、自宅に届いた無農薬野菜(=浅沼さん提供)。
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