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アンパンマンを抱きしめて ~難病WAGR症候群でも目いっぱいに歩む~

掲載日:2019年4月25日 11時49分

 千葉県で暮らす小学校1年生の長谷川伊織くんは、生まれたときからWAGR症候群である。患者数が全国で100人~200人という難病だ。腎臓がんを含む4つの症状が特徴。知的な発達も遅く、伊織くんは言葉をしゃべれない。しかし、アンパンマンやお寿司が大好きで、五感を目いっぱい伸ばして歩んでいる。
長谷川伊織くんと母のまどかさん(2019年3月4日)
がんを含む4つの症状

 おばあちゃんのお迎えで保育園から帰ってきて、長谷川伊織くんは、お母さんのまどかさんに抱きついた。 「伊織、お帰りなさい!」 「ブー!、ウーッ!!」 「給食食べた?」 「ウー、ウー」 「お歌うたった? ダンスした? お昼寝は?」 「ブー、ウー、ふふふふふ」

伊織くんのランドセル。アンパンマンが付けてある

 伊織くんは部屋の奥へ走ると、藍色のランドセルを持ってきた。ふたを開けてiPadを取り出し、器用に操作して「どんぐりマン」を聴き始めた。  2019年3月初めの午後。音楽が大好きな伊織くんは、iPadも大好き。好きなものを入れておけば、自分でランドセルを開け閉めする。その動作を覚えさせるためのまどかさんの工夫である。  伊織くんは生まれつき、WAGR症候群(11p13欠失症候群)という、全国でも患者数100人~200人と推計される難病である。  WAGR症候群は、11番染色体(11p13)上の一部の遺伝子が失われることで発症する。主に、ウィルムス腫瘍、無虹彩症、泌尿生殖器異常、精神発達遅滞の4つ症状がある(4つの英語表記の頭文字がWAGR。4つ全てが現れるとは限らない)。腎機能障害、過食、睡眠障害などを併発するケースもある。  ウィルムス腫瘍は、腎臓にできるがん。WAGR症候群の2人に1人がなる。  無虹彩症は、虹彩がないか不完全な状態で、目に入る光の量を調節できない。このため、すぐにまぶしがる。ほぼ全員が発症し、緑内障や白内障になることもある。  泌尿生殖器異常は、男の子は停留精巣や尿道下裂、女の子は子宮や卵巣の形に影響する場合がある。  発達遅滞の度合いはさまざまだ。一般人とほとんど変わらない人もいる。伊織くんは、6歳の今も言葉を話せない。視力は0.1ぐらいで、白内障もある。サングラスが欠かせない。それでも、就学前は、週に3回保育園、2回盲学校に通っていた。
「ずっと私のことを見てくれない」

 まどかさんは、1979年生まれ。千葉県で育ち、青森県の弘前大学医学部で学び医師になり、現在は千葉県内の総合病院で麻酔科の医長を務める。医師であっても、WAGR症候群という病気は縁遠い。「国家試験を受けたときに名前を見たかなあ」という。  だから、伊織くんが生まれたときにも、WAGR症候群とは思いもよらなかった。  呼吸状態が悪く、泣かない。停留精巣と尿道下裂もあったが、手術をすれば治る。妊娠中に女の子だと思い、夏美という名前まで考えていたのは停留精巣のためだったか、と気づいたぐらいだった。  ただ、「伊織はずっと私のことを見てくれない」と気になっていた。散歩に連れ出してもすぐに眠ってしまう。    2013年1月の4カ月健診で、千葉県こども病院の神経内科の医師が口にした。 「この子、茶目がないよね」  黒目がくりんとして大きいなとは感じていたが、虹彩がなかったのだ。散歩ですぐ眠るのもまぶしいからだった。染色体の検査をして、WAGR症候群とわかった。
最低5個ぐらい、腫瘍らしきものがある

 市役所からは、許可が出ていた地元の保育園入園に難色を示される。だが、当時の女性園長がこう掛け合ってくれた。 「私が見るから。赤ん坊なんて、寝て飲んで寝て、の繰り返し。現場が見ると言っているのに、なんで市がダメと言うのですか?」  こうして4月から無事に0歳児クラスに入れた。園長先生は伊織くんを可愛がり、「刺激を与えましょう」と年長の子のクラスに連れて行ってくれたりした。  しかし、順風満帆とはいかなかった。喘息があり、月の半分以上は入院してしまう。入院回数は、入園から半年間に6回に上った。

喘息で入院して、1歳の誕生日を病院で迎えた伊織くん(2013年9月)=長谷川まどかさん提供

 1歳になって、停留精巣を手術。そのころ、千葉県こども病院のエコー検査でこう指摘された。 「なんかもやもやしている。腫瘍としてのがんの塊はないけれど、念のため、MRIを撮ったほうがいい」  専門医が少ない小児がんでは、ネットを通じて他の病院の医師も画像診断に参加するシステムがある。結果はこうだった。 「両方の腎臓に、最低5個ぐらい、腫瘍らしきものがある。がん(ウィルムス腫瘍)かどうかは、生検しなければわからない。ただ、このまま何もしなければ、確実にがんになる。抗がん剤治療を受けたら、ある程度の確率で、がんにならない可能性もある」  がんになって手術を受ければ、腎臓の一部を切除する。WAGR症候群の患者は、ただでさえ慢性の腎臓病になる確率が高い。したがって、できるだけ腎臓にメスを入れたくない。  まどかさんは、抗がん剤治療を選択した。
「私の気持ちなんて、誰にもわからない」

 入院したのは年末。伊織くんは1歳3カ月であった。  抗がん剤はカテーテルを通して入れる。当初、カテーテルを入れた直後に中耳炎になったが、抗がん剤治療そのものは比較的順調に進み、3月末に退院し、5月まで治療を続けた。5つの腫瘍は増えもせずなくなりもせず。一部、形が崩れた。  入院中、まどかさんはさまざまな思いにとらわれた。 「入院すると、その倍の時間、発達年齢が遅れると言われているんです。療育、外での体力づくり、目を使った活動……。やらせてあげたいことがたくさんあるのに、できません。院内学級もありますが、就学前の子どもは対象外。全部親が抱えるので、置いて行かれるような気持ちになりました」

2014年5月、抗がん剤治療中の伊織くん=長谷川さん提供

 さらに、一見すると些細な事柄が気にかかった。  病院のスタッフがおもちゃを持ってきてくれるが、伊織くんには遊べない。「ありがとうございます。うれしいです!」と受け取りつつ、心の中でため息をつく。  伊織くんは理由もわからず癇癪を起こしたり、食事を取らなかったりした。回診に来た医師に訴えたら、「うちの娘も同じですよ」と慰められる。あなたの娘さんとは状況が違うでしょう、とかえって深い溝を見出す。  看護師が伊織くんに「ずっとママと一緒でいいわねえ」と声をかける。離れられない状況を理解されないことにいら立ちを覚えてしまう。  いずれも善意から出た言動だが、当事者にはズシンと響く。しかも、夫や実家の母にまで、「なんで先生たちに感謝しないの?」とたしなめられてしまう。 「私の気持ちなんて、誰にもわからないんだ」  まどかさんは、だんだんと、孤独の袋小路に追い込まれていった。  退院後も、入院時に一度退所した保育園への再入所、病院、市役所、入学を考えている盲学校とのやりとり……交渉や調整を一手に引き受け、ときに矢面に立った。  夫は20歳近く年上で、中学の国語教師をしている。歴史好きで、伊織くんの名前も、宮本武蔵の養子の名前から名付けた。生まれた当初こそ「もう定年も近いし、俺が見るか」と話していたが、現実は逆で、まどかさんの気持ちは次第に離れていった。
盲学校の運動会で始まりを宣言!

 その一方で、伊織くんは、自分なりのペースで成長している。 「坂道を登るみたいな曲線ではなく、停滞してグンッ、の繰り返しですね。特に4歳ぐらいからいろいろできるようになりました。毎日やれば、時間はかかるけど、できます」  トイレは日中は自分で行ける。盲学校に入るときにズボンは前、上着は後ろにボタンを付けた。ボタンの位置を頼りに着替えもできる。「洗濯するよ」と声をかければ、洗濯物を入れる箱を持ってくる。  好物の納豆が冷蔵庫の一番上に入っていることも押さえていて、庭の草むしりをしていたまどかさんがふと視線を感じて見上げると、窓際に立って、納豆を手づかみで食べている伊織くんがいた。  まどかさんが朝目覚めると、伊織くんの食器セットがお盆の上に出してある。最近はまどかさんの茶碗も用意する。「お腹すいたよ」と行動で示しているのだ。  盲学校の2018年秋の運動会では、みんなの前で始まりを宣言した。先生と一緒に朝礼台に立ち、はりきってお辞儀をする。  先生「これから」  伊織くん「バー」 「平成」「バー」「30年度の」「バー」……。  保育園の12月の発表会では劇「不思議の国のアリス」に、帽子屋の役で出演。両側から男の子と女の子に手をつないでもらい、演じきった。  それまで保育園の行事を見る度に、ほかの園児との差を実感させられてつらかったというまどかさんも、誇らしかった。伊織くんにとっても楽しい思い出だったのだろう。iPadに入れた劇の動画を何度も見ている。
3歳では信州でヒツジとたわむれ、4歳ではハワイの海で遊べた=長谷川さん提供

 楽しみは、毎週日曜日の回転寿司だ。  車で約20分かけて、混み合う前の午前10時半に行く。卵、いくら、甘えび、マグロ。食べるものは決まっている。どれも、普通の3分の1~4分の1のミニサイズだ。あまり噛まなくても引っかからないように、いくらの軍艦は海苔を巻かない。  お店のほうでもすべて心得ているが、店員さんはメニューを差し出す。伊織くんが写真を指さすのを待ってくれるのだ。

伊織くんが意思表示に使える数々のカード

 ランドセルにもブロマイドを付けるほど大好きなアンパンマンのストーリーも、少しずつ理解してきているようだ。登場人物が泣くと、「ハン、ハン」と泣くまねをする。  部屋には、歯磨き、着替え、おやつ、ジュース、本、車、自転車、スーパー、寿司屋、アンパンマン、公園、家など伊織くんの生活と密接な事柄や事物を絵にしたカードがおよそ50枚、ボードにかけてある。カードを使って自分の意思を示すこともできる。  最近はお風呂で、まどかさんの背中を流してくれるようにもなった。  将来的には、小学校中学年ぐらいの知能には発達するのではないか、とみられている。
一軒家は伊織くん仕様


ヒューケラ、ティアレラ、西洋オダマキなどが咲く庭。手前の緑はクリスマスローズ、アナベル=長谷川さん提供

 2018年3月、まどかさんと伊織くんは、前の家から5分ほどのところに一軒家を建てて引っ越した。  内装は、伊織くん仕様だ。ドアは全部、手が届かない高さに鍵を付けている。気が散らないように、着替えの空間は狭い。まぶしくないように、壁の色は少し暗めだ。  まどかさんが当直のため、金曜日の夕方から土曜日の夕方まで、伊織くんは前の家で父と過ごす。まどかさんにとっては、土曜日の当直明けから夕方までは、1人になれる貴重な時間でもある。  その時間で、ガーデニングに精を出す。ガーベラ、エキナセア、ヒューケラといった宿根草の花。オリーブ、カツラ、ジューンベリーといった適度な高さに育って光をやわらかく遮ってくれる樹木……。 「庭で土をいじっていると、一人の自分に戻ったような気がします。伊織にとっては、植物が好きになれば、将来の就労につながるかもしれない。保育園でも、土をかける程度ですが、花を植えるのを自分から手伝っているみたいなんです」









子どもは親の想像を超えたことを成し遂げる

 まどかさんは、患者家族会「日本WAGR症候群の会」(2012年9月設立)の代表も務める。  家族会員は15世帯。交流や情報交換、会報の発行のほか、医療・福祉・教育の関係機関に働きかけたりする。ホームページでは、一般向けのわかりやすい解説と同時に、医療者や研究者へ向けた記述も載せる。東京女子医大の山本俊至先生と面談を重ねて、2015年には、山本先生が作成したWAGR症候群の診断基準が日本小児神経学会に公認された。  2018年の交流会の会場は山梨県。1泊2日で、7家族が集まった。まどかさんの幼稚園時代からの親友も、栃木県から来てあれこれと手伝ってくれた。状況を根掘り葉掘り聞く代わりに、「いまこのCDがいいよ」と送ってくれるような友人だ。  会の子どもたちの症状は人によって違う。 「最初は、伊織もああいうふうになれたらいいな、などと思いましたが、3年ぐらい前から、伊織は伊織で一生懸命やっているからいいや、と思えるようになりました。それからは気持ちが少し楽になりました」  日本WAGR症候群の会は、国際的な患者家族支援団体(IWSA)ともつながっている。まどかさんは伊織くんが2歳のときに、米国で開かれた会のキャンプに連れて行った。英語で伝えられる最新情報は、日本の会員たちにフィードバックする。  悩みがあると、海外のフェイスブックに書き込む。すると、世界中の人から助言が飛んでくる。中でも印象に残っているのは、次のような言葉である。 「親が子どもの限界を勝手に決めてはいけない。子どもは絶対、親の想像を超えたことを成し遂げてくれるから」
夢は2人で海外旅行

 何かと手助けしている祖母の蝶朱美さんは、こう語る。 「手拍子したり、ダンスしたり。首を振れるようになっただけでも喜びでした。小さなことがすごくうれしく、幸せを実感しています。それに、伊織がいることで周囲の子どもたちもいろいろ学んでくれる。伊織は貢献しているんです」  まどかさんは北海道で医師になった20代のころ、中学ぐらいからの写真をすべて、捨てたことがある。2011年3月の東日本大震災の日、千葉県の海沿いの病院から信号も消えた真っ暗な町を帰り、とても怖かった。「守る者がほしい。守る者があれば生きられる」と強く思い、夫婦で不妊治療を開始した。そして、伊織くんを授かった。  まどかさんの夢を聞くと、最初にインタビューした日には、 「伊織が、彼なりに自立して、愛される環境の中で、自分で物事を選んで生活すること。たとえ親がいなくなっても、今の笑顔を失わないで」  と語った。  盲学校を定年した先生に「可愛い、可愛いで済まされるのは小学校3年生までよ」と指摘されたことがある。いずれは個を確立しなければならない。この先生には「手をかけるほど、それだけのことが返ってくるわよ」とも諭された。  二度目のインタビューのときにはこう明かした。 「いつ腫瘍ができるかわからない。腎臓が悪くなるかわからない。綱渡りの病気です。だからこそ、本当の夢は、10代後半になった伊織と2人で海外旅行に出かけることなんです」  そこには、その年齢まで元気で、かつ自立していてほしいという願いも込められている。
おばあちゃんの蝶朱美さんとも仲良し

腹時計の正確さが証明された

 2019年4月9日、伊織くんは小学校に入学した。  1年生は15人。うち11人は保育園時代からの仲間だ。まどかさんが懸命に交渉して、国語と算数以外は、普通学級で過ごせることになった。

小学校に入学してどこか誇らしげな伊織くん=長谷川さん提供

 毎朝、6年生まで約10人と集団登校する。まどかさんも教室までついていく。  きちんと時間で動き、掃除などの仕事もある小学校生活は、自由度の高い保育園とは環境が違う。1日の流れがつかめず変化に戸惑っているのだろう、登校をぐずるときもあるが、不思議と同級生や上級生が手をつなぐとうれしそうにスキップする。  学校では、特別支援学級の先生か支援員のベテランの女性がついて、教室移動やトイレなどをフォローしてくれる。  想定外の課題は、給食だ。3時間目が終わる頃が、保育園や盲学校の給食の時間にあたる。小学校の給食は4時間目の後なのに、待ちきれず、食べたがるのである。 「伊織の腹時計の正確さが証明されましたね。でも、毎日少しずつ、新しい生活の流れに慣れてきているようです。デイバイデーです」  腹時計が修正される日は、遠からず、やって来そうだ。
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