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第20回 知っているようで知らない、 家族・友人・医療者の、それぞれのココロ
木口マリの「がんのココロ」

掲載日:2019年5月29日 17時15分

「がんです」と言われたときに思ったこと。 「親は、きっと強いショックを受けるだろう」ということ。 「どう伝えるべきか」「気持ちのサポートも考えてあげなければ」と、そんな心配をしていました。

 これは私に限らず、がん仲間からたびたび耳にする話です。診察室で泣いてしまった親を支えようとした人もいるでしょう。自分自身が大変な状況であっても、家族や友達などの親しい人に「悲しい思いをさせたくない」という気持ちが、人の心に湧くことも多々あります。

 私もそんな気遣いをしつつ、家族や友人、仕事仲間に、「がんになった」と伝えました。がん発覚直後でも、案外、人への気遣いもできるものなんだなと思ったものです。

 しかし、しばらくして、私の想像をはるかに超えて苦しい思いをしている「患者の周囲の人々」がいることに気付きました。「こんな辛さを抱えていたのか!」と。  今回は、そのような「周囲の人たちの気持ち」について考えてみたいと思います。


家族のココロ

 最初にそのことに気付いたのは、ある人と私のがん経験のお話をしているときでした。  私は、いつも通りの明るい調子で話をしていました。がんが貴重な経験だったこと、楽しい思い出もたくさんあること、経験が現在の自分の役に立っていること。ときには、ちょっと笑い話を交えてみたり。

 だいたいの場合は、そのような“明るいがんトーク”を興味深く、ある意味楽しみながら聞いてくれるのですが、その方は違いました。表情がだんだんと曇っていったのです。  しばらくして、おそらくそう遠くない過去に、がんで若い家族を失ったとことを話してくれました。幼い子供を残して亡くなったそう。きっと私の話の中に、悲しみを呼び起こすポイントがあったのだろうと思います。

「なぜ、あんなにいい人が、と思ってしまう」と、つぶやく彼女。  そのとき、「家族は、患者本人とはまったく違う辛さを感じている」ことを実感しました。しかも、「悲しみは、その深さを保ったまま、長い期間続くことがあるのだ」と。

 私は強い衝撃を受けただけでなく、自分の配慮のなさや経験の浅さに、恥ずかしさを覚えました。私は、「がん」という、誰もがするわけではない経験に、いくらかのおごりがあったのだと思います。

 世の中には、まだまだたくさんの、私が経験したことのない心情があることを忘れてはいけないと思いました。もしかしたら家族・遺族の痛みは、患者の抱えるものよりも、もっともっと苦しいときがあるのかもしれません。

 周囲の人は、患者本人の痛みを知ることはできません。いくら本人が「大丈夫だよ」と言っても、「本当はどれほど苦しみを抱えているのだろう」と案じ、何もできないような気持ちになることもあります。  自分のことであれば何とかできるとしても、人の痛みは、心に何ともしがたい傷を付けます。身近な人であればあるほど、辛さは大きいでしょう。


友達のココロ

 親しい友人も同様です。一緒に元気でいるときは、「いつかこの友達と会えなくなることがあるのかもしれない」などと思うことは、まずありません。元気でいても、それは必ず訪れることなのですが、普段は考えないものです。

 私は、父親を亡くして間もない友人に「大切な人を、もう一人亡くすのかと思った」と言われました。がんは、治せる可能性がどんどん高くなっているし、完治しなくても付き合って生きていくこともできる病気になっています。しかし、「もしかしたら」という思いは心の中にあるもの。

「友人もまた、本人や家族とは違うものを感じるんだ」と思いました。


医療者のココロ

 医療者もまた、人である限り、感情があります。「がんです」と告知されたときに大きなショックを受ける患者がほとんどのなか、医師は、それを告げなければならない立場にあります。  だれも、相手を悲しませるような話はしたくないはず。それを毎日のように繰り返さなければならないとは、たとえ仕事とはいえ、相当過酷に違いない。

 近年では、親身になってくれる医療者が増えてきました。患者が落ち着いて治療をしていくためには医療者との信頼関係がとても大事で、医療が全体的にその方向になっているのは、とても素晴らしいしありがたいことです。

 一方で、医療者が患者と親しくなるために、患者が亡くなったときに大きな喪失を感じてしまうこともあると聞きます。数多くの患者と向き合うからこそ、積み重なる辛さもあるでしょう。

「告知のとき、ウチの先生は淡々としていたよ」という話もたまに聞きますが、本当に心の中もそうなのでしょうか。多くの場合は、何かしら心を削られるものがあるのではと思います。医療者に対して、「辛さを感じているのかもしれない」という思いやりを、私たち患者も持っていたいものです。


私が思う、“去る側”にできること

 先日、友達が「まーりーさん(たまにそう呼ばれる)には笑っていてほしいし、幸せでいてほしい」と言ってくれました。そう思ってくれる人がいるのは、本当に幸せだと思いました。

 治療にも人生にも、苦しかったり、やりきれなかったり、「もう何もかもどうでもいい」と投げやりになることはあります。しかしそこに、支えてくれる人、自分を思う人がいるだけで、物事に対する感覚は大きく違ってきます。

 たとえ支えられる側であっても、想うことで相手を支えることもできます。そうやって、お互いに支えあっていくことができればと思います。

 家族・遺族の気持ちに気付かせてくれた人とお話しして以降、私が“去る側”になったとき、残される人々の辛さを少しでも和らげるためにできることは何だろうと考えるようになりました。

 私なりのこたえとして、行き着いたものが一つあります。 それは、「私はいい人生を送った」と、心から感じ、伝えることです。それが、せめてもの慰めになるのではないかと。そのためにも、生きている今、一瞬一瞬を大事に生きたいと思うのです。


木口マリ

「がんフォト*がんストーリー」代表 執筆、編集、翻訳も手がけるフォトグラファー。2013年に子宮頸がんが発覚。一時は人工肛門に。現在は、医療系を中心とした取材のほか、ウェブ写真展「がんフォト*がんストーリー」を運営。ブログ「ハッピーな療養生活のススメ」を公開中。

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